だしを引く時間がないっ!

今日は、ちょっと食材の紹介を・・・。

僕が料理人の世界に入ったのはもう三十年も前のこと。(^_^;)

今は超・有名料理人となられた道場六三郎氏の店に弟子入りして

しまったのが、ここまで料理を続けられるパワーになった。

同じ時「ろくさん亭」か「胡蝶」かと・・・。

僕を紹介して下さったAさんは迷われたらしい。

でも、「美大崩れ」(爆)「土建屋稼業三年仕込み」という肩書き(!?)

を考えると、どうしても道場氏の顔が浮かんだと言うから・・・・。

僕は、道場氏の弟子になるべく生まれたのかもしれない。

と言いながら、2年でフレンチに移ってしまうのだから、人生は解らない。

まだ料理の鉄人で有名になる前から、道場氏はフレンチやイタリアン

を自由自在に取り入れた料理を作っておられた。

そこで、フレンチの世界に触発された。(笑)

まさか、それが理由で辞めてしまったとは、思いもよらなかったのでは・・・。

「親父さんよりフレンチを極めたい」何という怖いもの知らず・・・。

若かった。(^_^;)

当時から道場氏の料理は、「料理自由自在」と言うのが一番しっくりきた。

最高の技術と、最高のセンスと(こんな事を僕が言うのはおこがましいけれど)

当時、仲居さんの中には銀座の有名店で仕事をされた方もいらした。

こっそり耳打ちしてくれた。

「親父さんが作ったお刺身には後光が差しているの・・・」

料理自由自在はメルマガにも書いた・・・・。

「四季の味」→ http://ameblo.jp/riant/entry-10591023634.html

毎日の仕事は最高にクールだった。

僕は超、恵まれている時に御世話になったと思う。

花板さんも、煮方さんも、脇方さんも、焼き方さんも・・・。

そして僕「追い回し」も・・・。日本一の仕事をする意気込みだった。

まだまだ若い親父さんだったから・・・。

あ、メルマガみたいに長くなりそう。

で、僕はろくさん亭で毎朝二年間だしをひき続けた。

だしには、うるさい方だと思う。(笑)

ただ、料理教室の講師をやっていると、あんな出汁を講義できない。

驚くほどの鰹節を一気に使うのだから・・・・。旨いわけだ。

あれは料理屋の出汁。

家庭では、いや、ジャンクフードやファストフードに使うお金を鰹節と

昆布に回せるならどの家庭でも出来るかもしれない。

勇気があれば・・・。(笑)

因みに、出汁をひくのが面倒だと思っている方に言っておく。

和食の出汁は、史上最高のインスタント食品だ。(笑)

パリのキッチンで、母からの小包に入っていた鰹と昆布で出汁を

引いたとき、シェフはびっくりしていた。

「マ●ーより旨い」って・・・。そりゃそうだろう。

鰹節って出来るまでどれだけ時間がかかっているか知ってる?

昆布ってどうやって作っているか知っている?

「マ●ーと一緒にするなよ」

鰹節と昆布を作ってくださる方が、フォン・ド・ヴォーを作るより長い

時間をかけて味を「生み出して」くださるのだから・・・・。

料理人の仕事ではないけれど、農家が旨い野菜を作るのと一緒。

後はその素材を信頼して、自信を持って出汁をひけばいい。

香りと旨みと・・・。

「日本人に生まれて良かった」と思わせるその液体に、二年間は

人生をかけていた。(笑)

で、その出汁を毎日引くのは・・・。

やっぱりプロだから続けられるのだと思う。

現代の家庭で、仕事して子供を育てて・・・。

又は残業して・・・。

夜帰ってきてから出汁をひきなさいなんていえない。

因みに僕の弟も料理人だった。

りあんを開店した当初、手伝ってもらったけれど・・・。

彼は料理人であり、花職人であり・・・。今は介護士をしている。

有能な人材だ。

その彼が、時々料理を作るらしい。

で、僕より惣菜は旨い。

僕は仕事柄つい能書きを重ねやすいけれど、彼はそんな暇が

無いからとにかく、早く旨く、・・・。実践派だ。

その彼が「兄貴、これいいよ」と出汁の素を教えてくれた。

最初ちょっと敬遠したけれど、彼の味覚を知っている僕は素直

に受け取った。

「結構いけるジャン」

「何に使っているの?」

「煮物。ほら甘味と旨みが濃いし、醤油の色がないから上品に

仕上がる」

「へぇ~」

「出し巻き卵とかおでんとか、いいよね」

「そうそう、下手な出汁を取るよりよっぽど調味料が少なくていい」

「でも高いんだろう?」

「350円だったよ・・・」

「えっ、それっ、まじ!?」(笑) 「でしょう?」(笑)

今日も暑かった・・・。

明日は素麺の出汁に「これ」※で「追いがつお」※(笑)しよう。

※追いがつお;煮物が煮上がった際、鰹の風味を増すためにサラシや

  ガーゼで一番削りを包み、蓋のように煮汁の表面を覆うこと。

※350円の「これ!」の正体は「桃屋 塩だしつゆ」
  → http://www.momoya.co.jp/products/detail/tuyu_siodashi.php

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絵本を読む料理人=アンジェロ=

「アンジェロ」

ふ~。やっと追いついた。

いえ、去年の12月からこのブログでのご紹介をさぼっていました。(^_^;)

4月はこの絵本でした。

僕は自分が料理職人だから、「木を植えた男」にしろ、

この「アンジェロ」にしろ職人系の話にホロリときます。(笑)

是非お手にとってどうぞ!

                                                               

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絵本を読む料理人=くまとやまねこ=

「くまとやまねこ」

先月とうって変わって動物ものです。

今小鳥を飼っています。

だから余計に感情移入しました。

小鳥の絵が実にかわいらしい。

熊にしっぽをつけてもらっているところなど特に・・・(笑)

命の永遠を感じさせてくれます・・・。

それは希望です。

絵本は・・・。

絵本こそ今の大人が読むべきものと感じさせてくれる一冊です。

                            

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絵本を読む料理人=エリカ=

「エリカ」

強制収容所を描いたもので、少し重いかな・・・。

でもこの絵本では、極限の状態の中で生きるという事を

非常に精密な絵を通して見ることが出来ます。

母親が死に向かう中で、エリカに託す「生」

それの行為は、現在なら真逆。

「死」へ向ける残虐な行為に他ならない事なのに・・・・。

大人が静かに読む絵本でした。

                              

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絵本を読む料理人=ちいさなあなたへ=

「ちいさなあなたへ」

愛らしい。

ほのぼのとした数頁に人生が凝縮されてます。

お正月だから、一年を感じて一生を思って・・・。

いかがでしょうか?

幸せ、よろこび、不安、痛み・・・。

絵本の持つ力を感じます。

                               

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絵本を読む料理人=世界で一番の贈りもの=

「世界で一番の贈りもの」

12月はクリスマスだったので、この本をご紹介しました。

日本のクリスマスは、プレゼント交換のお祭りなんだなと・・・。

あらためて感じてしまった瞬間でした。

大切なものを見つけられます。

                              

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絵本を読む料理人=木を植えた男=

「木を植えた男」

毎月絵本をご紹介しています。

これは、三冊目

思い切り感動しました。

何故料理人が絵本?

その答がこの中にありました。

そんな絵本でした。

                             

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退院、再入院そして りあん Vol.31

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

結局、長女の場合、この手術でほぼ完治の状態になったのです。
勿論、未来はわかりませんから・・・・・。
その時点で出来る最良の結果に終わったと言うことでした。

術後ふた月ほどの入院をしました。
主治医が驚くほどの回復力だったのです。
赤ちゃんというものは、ものすごい再生能力があるものです。
そこに、人間の英知、医学の力が・・・・・。
もしそのまま放置すれば、ゆくゆくは細胞が死んで行くだろうものを、そうでは無い方向へ向かうようにと、そのきっかけを与えたのです。

まだ、生後一月です。
当然、僕らの話しも理解していません。
何の知識もありません。

ただ、その身体は、「生きよう」「生きよう」として生まれてきたのです。
疑いを知らないその活動は、その体内の宇宙をより活性化させた事でしょう。

身体はみるみる回復し、退院の日を考えるようになりました。
前代未聞。主治医も驚きを隠せないのですが、全データがOKサインを出したのです。

夏に一度退院しました。
そう「一度」が結局付いたのですが・・・。

その訳は、退院して一月ほどでしょうか?
真夏でした。エアコンは控えていたのですが、汗疹を心配して扇風機を使ったのです。
そして、そのまま寝てしまったのです。
僕は仕事に行っていて知る由もなく・・・。

地下鉄を降りて家路を歩いていると、向こうの方から近所の歯科女医さんが駆け寄って
きました。
彼女は、飯坂が治療に通う間に友達となったのです。
そして僕は、彼女からつい今しがた、長女の様態が急変して飯坂が救急車に乗って病院
へ行ったことを知らされました。

それまで、のんびりと鞄をぶら下げて歩いていた僕は、その鞄を抱えると一目散に自宅へ向かって走り始めました。
まだ、携帯がない時代です。
とにかく、病院へ行かなくては・・・・・。

そのままの姿で表通りへ出るとタクシーを探しました・・・。
こんな時は、つかまらないものです。が、しばらく進行方向へ向かって走っていたときに運良く空の車が来ました。

乗り込むと、「三軒茶屋の国立小児病院」と告げました。
シートに深く座り込む余裕もなく、とにかく行く先だけを見つめてました。
渋滞に巻き込まれないでくれ・・。信号で止まらないでくれ・・・・。と祈るように。

病院に着くと料金を支払うのももどかしく、外科病棟へ走りました。
つい一月前までお世話になった病棟へ行くと、ベットがいっぱいだったので、
向かいの病棟へ緊急入院させたとのことでした。
挨拶もそこそこに、向かいへ走り込みました。

「今、救急車で運ばれた川名ですが・・・・。」

看護婦さん達の詰め所で、半ば叫ぶように言いました。
婦長さんらしき方が、説明に来て下さって・・・・・。

「大丈夫、大丈夫、今寝ているだけだから・・・」
「お母さんもきっと看病疲れでしょう、あちらのベットで寝ています」
と、顔を向けた先の病室には、飯坂が寝ていました。
長女は、別室で寝ているとのことでした。

へなへなと座りたくなるような心持ちでしたが、何とか座り込まずに、飯坂の近く
へ行くと、目を覚ましていました。

この夏の日から、クリスマスまで、長女は再入院になったのです。
とはいうものの、あくまでも用心のためと言うことだったので、本当に安心しました。

そして病院で離乳食が始まり・・・・。
飯坂は時間の許す限り、病院で長女と過ごしてました。
僕も、仕事が終わると職場からすぐに病院へ駆け付けました。

飲食店の料理長だったら、とても無理だったでしょう。
料理教室の仕事が僕のところへ来た理由が、この時解ったのです。

人生は不思議です。そして全てには、訳がありました。
さらにその全ては、奇跡に近いのです。

長女の成長が安定すればするほど、僕たちは退院後の生活を考えるようになりました。
ディスカッションではなく、何となく・・・・。

それは、夏の緊急入院を経験したことで余計強く心に刻まれていました。

長女と共に生きなくては・・・。

家に一人置いておくことも、ベビーシッターも、託児所も・・・・・。
全て出来ないことです。

かといって、僕一人の給与では心許なく・・・・。
また、あの女医さんの友人達が集まると、こんな話が出ました。
「いつ“シェ 川名”は開店するのぉ~」等と冗談とも本気ともとれる話が出て
いました。

その中で雑誌編集の仕事をしていた友人が、飯坂のキャリアを「もったいない」と
口癖の様に言ってました。

この言葉は、かなり僕の背中を押しました。
物事を行動に移すときのきっかけなど、たかが知れています。
その結果、自分の店を持とう。そうすれば子供を見ながら仕事が出来て、飯坂の仕事もある。全ての条件が揃う・・・・。かなり簡単に考えました。

ところが・・・・。(今思うと)(笑)
大切な売上についてはこれぽっちも考えていなかったのです。(笑)

場所は、国立小児病院から車で10分以内のところ・・・・。
初台、世田谷、下北沢、三軒茶屋、学芸大学、駒沢大学、池尻大橋、中目黒
世田谷線に乗って、見て歩きました。
東横線に乗って、代官山で降りて、中目黒から学大まで・・・。

実はこの時、今の「りあん」から数百メートルのところを歩き回ってました。
結局、知人に紹介された不動産屋さんの物件で、中目黒に決めました。
実際オープンしてからも、時々この近所の不動産屋さんを覗くことがありましたが、
飲食店として利用可能な一軒家は・・・・。ないも等しいです。
あったとしても、費用と場所を含めた条件が全くあいません。
この場所は・・・。奇跡なのです。

今だから、こんな風に言えるのですが・・・・。
全て奇跡に等しい事が、起こりました。
それは、フェラーリや3億円が当たったとか・・・。
そんな事よりもっと、もっと奇跡だったことに気が付くのです。

人生に計画は必要なのでしょうが・・・・。
この頃の僕たちは、例え計画していたとしても、全く意味をなさなかった様な日々です。
そして、無計画でも、まるで絵を描いた餅のように最良の路を歩んだのです。

「路はあるものではなく作るもの」という言葉がありますが・・・・・。

決して、僕らが作ったものではないです。
何かに導かれて・・・・・。

それを人は「神」と言うのかもしれませんが・・・・・。
僕らは、導かれたのです。

そして僕たちは、ここに「りあん」を開店しました。

この一連の奇跡的な事柄の根本は長女でした。
その長女の名前は「理衣(りい)」

りあんには幻の名前があります。(笑)
それは「理庵」~りあん~

奇跡を連れてきた長女の名前から一文字をもらったのです。
でも、お蕎麦屋さんか居酒屋さんに間違えられそうと言うことで、フランス語表記に
変えてしまいましたが・・・・。(笑)

その日から、今日までの一瞬のような14年間が始まったのです。

                                  Yoshinori.K

毎月末か翌月1週目に、「chefの独り言」は、ココログにUPします。
Google、Yahoo!で「愛される料理」です。          
メルマガ版の「愛される料理」のバックナンバーは、アメーバブログです。
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1994年5月7日 Vol.30

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

1994年5月7日・・・。
ゴールデンウイークが終了し、ドクターが全員揃って・・・・。
とうとう、長女の手術の日となってしまいました。

生後ひと月足らずの乳児の開腹手術という事が、どんなに不安なことか・・・・。

右往左往するでもなく、自分で何かを変えられるでもなく・・・・。
ただ、黙ってなるままになるように・・・。

言葉も出なかったと言うのが本当のところなのでした。。
それから・・・・・。
余りよく覚えていないのです。

結局、心ここにあらずという状態で、何も言えなかったに過ぎません。
口を開いたとしても、家族に何といえばよいのか・・・。
不安がるわけでもなく、強がるわけでもなく・・・。

昨日までは、何かに向かっていました。
それは・・・。
「これは何かの間違いで、きっと健康体なはずだ。とわかり、退院出来るかもしれない。」と言う、科学的、医学的に何の根拠もない、「大丈夫」に向かっていたのです。

飯坂も同じ気持ちだったのでしょうか?聞いたことはありません。

でも、審判の日は来たのです。
間違いなく手術が始まるのです。

何も知らない長女は、前日まで思い切り身体を動かし、抱く者の心をまるで見透かす様な瞳で見つめてました。

すこしずつ、世の中が見えてきたのでしょう。
誰が抱いても、しっかりと見つめてました。
そしてその抱く者が語りかける口元から一時も目を離さないのです。

彼女は、よくあくびをしてました。
小さな手と足をのばして・・・・。
循環が悪いせいか、足先が冷たいと言うことで小さな靴下をはいているようでしたが、
それは、看護婦さんがカーゼをまいて作ったレッグウォーマーの様な感じでした。

そしてお腹が空くのでしょう、よく泣いていました。
看護婦さんがほ乳瓶の口先だけを貸してくれました。
「おしゃぶり」にするのです。

ミルクが入っていなくても、それを吸っているだけでおとなしいなんて・・・・。
知ってはいるものの、今目の前にして見るととても不思議でした。

ウトウトしていたのでちょっと悪戯をして取ってみたら・・。
いきなり泣き始めてビックリ・・・。(オット、ごめん)(爆)

検査入院のひと月間は、病気と言うよりも「神様が忘れ物をしてしまったんだ。」と思いながらの日々でしたが、それなりになんとも不思議な幸せを感じていた事も確かです。

手術の朝、飯坂がおむつを取り替えているのを横で見ていました。
タオルで作られたおくるみの紐を解き、おなかが見えました。
生まれてひと月たち、この世の空気にも慣れ、食事制限とはいえ必要量のミルクを飲み
のびのびと手足を動かし始めた長女の、傷もしわも無い出来立ての美しい肌が・・・。
そこにありました。

その時、これから大変な事が始まるのだと、急激に焦りと不安が押し寄せてきて、
今までの幸せがガラガラと壊れてゆく思いで胸が一杯になりました。

もうこの子が死ぬまで、この状態のお腹にはもどれないのか・・・・。
この美しい造形物を壊してしまわなくてはいけない・・・・。
それは、仕方がなかったにしろ、僕にある種の罪悪感を感じさせたのです。

長女のベットの名札の脇に、赤く塗られたボール紙に黒い文字で「手術です」と書かれた告知札がつるさげられました。
なんだか、だめ押しのようなお知らせに感じられました。
そして全くお門違いなのだけれども・・・・。
看護婦さんが意地悪をしているようにさえ思えたのです。
「解っているよ。いいよ、そんなお札をかけなくても・・・・・・。」

そんな気持ちがあふれましたが、それははっきりと僕を現実に引き戻したのです。
小さな絶望と大きな希望の「赤いお札」でした。
お腹の大きな切り傷と引き替えに、彼女は宇宙でたった一つの命を手に入れるのです。

そして手術が始まる時間になりました。
担当の看護婦さんが小さな長女をいつものように抱き上げ、小さなバスケットの寝台に
移し、タオルをかけ押し始めました。
僕と飯坂も後を付いて・・・。

そして、すぐに僕たちは離れる場所に到着しました。

手術室の横にある待合室でまんじりともしない気持ちのまま、僕は家族と共にいました。母が「座ったら」と声をかけてくれましたが、何とも落ち着かない僕は人のいない手術室の前の廊下を行ったり来たりしていました。

いまだかつて経験したことのない、全く止まってしまった様な、逆に激しい轟音をたてて流れている様な、不思議な時間を感じました。

手術時間は・・・・。
3時間だったのか、5時間だったのか・・・・。
ずいぶん長かったように思います。

今でも、不思議なのですが・・・・・・。

治らないとか、不可能だとか・・・・。
肝移植が必要だとか・・・・・。全く考えていなかったのです。
治らなかったらどうしようとか。その日、思ってもみなかったのです。
ちらりとも・・・。本当に。

かなりの確率で生肝体移植になるか、いつまで生きられるかとか・・・・。
そんな話になる、いわゆる「神様の忘れ物」です。

それなのに・・・・。
手術の当日僕は、全くそれを感じなかったのです。

そして、意図的に思うでも、刹那的に思うでもなく・・・。
何か、淡々とした、静かな気持ちだったのです。

とても静かな気持ち・・・・。

数時間後、手術は終了しました。

奇跡的に肝臓の中の胆管は作られており、その外で出来上がっていなかった管と十二指腸をつなげれば・・・。

手術は、無事成功に終わったのです。

とはいうものの、長女は数時間前の一見健康そうな様子とはうって変わり、何とも変わり果てた姿でベットの上に寝かされてました。

点滴の針が小さな細い足首に打たれ、その小さな鼻には酸素の管が通され・・・・。
その顔には・・・・。
それはまるでケーキを保存するための大きな円柱のプラスチックカバーの様な物が、かぶされていました。

そして、目を閉じてはいるものの、ゆがんだ苦しそうな顔で眠っていました。

生後ひと月の彼女にとって、この世に祝福されて登場してきたにしては、あまりにも
つらい仕打ちのように思われ、涙がこぼれそうになりました。

顔は、手術の影響でむくみ、体内の色々なバランスが壊れたせいか発疹がでて、
ぐったりと横たわっている姿は、痛ましくてやるせない気持ちにさせました。

それでも、この段階の手術で救われたのです。
もしも、肝臓の中の胆管が出来ていなければ・・・・。

長女の様な状況になる確率は、確か八万分の一程だと言われたように覚えてます。

僕は、身体中の力が抜け、ただ、ただ執刀医を初めとして・・・・。
この子を取りまく全ての事柄に、全ての巡り合わせに感謝するだけでした。

                                  Yoshinori.K

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神様の忘れ物 Vol.29

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

翌日から、僕は母乳を国立小児病院へ入院したまだ名前の無いわが子へ、運ぶ様になりました。
飯坂の帝王切開の傷口が癒えるまでの1週間ほどです・・・・。

当時の仕事も今と同じ、料理教室の講師及び料理長だったのです。
ただ、生徒さんが300名もいらしたので、当然スタッフも数名いました。
また、コースもA、B、Dと分かれており、僕の担当は月下旬のD(応用)でした。

2年前なら、僕はキッチンから離れられませんでしたが、既に若いスタッフが仕込みも準備もしてくれていたので、僕は講義時間内に仕事を集中して、合間には病院へ行かせてもらいました。

これは、14年たった今でも、心から感謝しております。
そして、僕がこの職場を、半ば導かれるように選んだ最大の理由が分かったのです。
「運命」はあります。でも、誰も知らないのです。

お昼のクラスが終わると夜のクラスまで3時間ほどあります。
職場から飯坂の入院している病院も、赤ん坊が入院している病院も30分程で行くことが出来ました。

まず飯坂のいる病院へ行き冷凍保存されている母乳をもらい、そこからバスに乗り当時三軒茶屋にあった国立小児病院まで行くのです。
飯坂の主治医も、予期せぬ事態になっていったことに驚いていたと思いますが、僕の不安を取り除こうと、それまでより何かと声をかけてくれました。

ただ、はっきりとどうなるかは言えないと言うことでした。

その病院の看護婦さん達も、この病気について詳しくは誰も知りませんでした。
僕は多少苛ついていたのです。
何故こんな事になるのだろう?
凍った母乳の入ったデイパックをひざの上に抱き、バスの座席に座っていると、窓の外にやたらと親子がそれも、母親と一緒の小さな子が目にはいるのです。
こんなに小さい子が、街にはいたんだ。

知りませんでした。
いえ何も見えていなかったのです。

そして、前日あの病室に置きっ放しにしてきた、赤ん坊に着せるおくるみやタオルケットを思い出した刹那、静かに涙がこぼれ落ちてきました。

こんな事で、何故?
まだ、どうなるかも解ってもいないのに・・・・。
「おめでとう」「いらっしゃい」「はじめまして」と言う明るい声と笑い顔の中に迎えられるはずだったのに・・・。

国立小児病院の新生児室(通称3C)に着くと、まず手をよく洗い、上着を脱ぎ・・・。しっかりと身を包む長い白衣を着て、髪の毛を隠す深い帽子をかぶらなくてはいけません。
入口のマットは、巨大な両面テープの状態で靴の裏のほこりをはがし取っていました。

更に各病室の入口に備え付けられている手洗いで再度洗います。今度はうがい薬のイソジンの巨大なものが、蛇口の横に付いてました。
その巨大なポンプを押すと手に濃い茶色の液体が吐き出され、それで手をよくもみ洗いしました。手が荒れることを後から知りました。

生まれてすぐの母乳には、生まれてまもなくの純粋な身体をこの世の大毒(笑)から護る栄養素がたっぷり入っているので、これは飲まなくてはなりませんが、これを少し飲んだら、脂肪分の無い肝臓に負担のかからないミルクにすると言われました。

看護婦さんが、抱き方を教えてくれました。「えっ?抱いていいの?」
僕は、恐る恐る手を延ばしました・・・。

「わっ!」・・・何という軽さなのだろう。
今にも壊れそうなその身体には羽根でも生えているんじゃないのかと思うほどでした。
「僕と一緒に、いてくれるよね・・・?」「何処にも行かないよね・・・・?」

ふと時計に目をやると、もう職場にもどらなくてはならない時間でした。
空気の様に軽いその子を小さなかごの中にそっとおき看護婦さんに会釈をして、僕は更衣室へ向かいました。

白衣を脱ぎ、帽子を取り、上着を着て出口へ向かいます。
自動ドアが開いたとたん廊下の喧噪が耳に入りました。
現実・・・。
でも、ここにいる人たちは皆、何かしら重い病気を抱えた子供や孫を持っているのだと、思うと、その喧噪もなにやら身近に感じられ軽い親近感さえ抱くのでした。
職場にもどりながら、この病気を調べる方法を考えました。
まだインターネットは普及しておらず、パソコン通信の時代でした。

翌朝、新聞を広げて、ボーっと読んでいたら、信じられないことにそこに今まさに知りたい文字列が並んでいたのです。 「引き寄せた・・・?」

「先天性胆道閉鎖症」
この病気を持つ子供の親御さんが集まっている会があるのです。
僕は、思わず新聞社に電話しました。

そして、この記事を書いた方ではなかったのですが、担当部署の方とお話ができて・・・。
その新聞社のデータベースから、過去に「先天性胆道閉鎖症」を取り扱った記事のバックナンバーを教えて下さったのです。
(実はいきなり電話して調べてくれるものではないことを、後に知るのです)

僕はそれを頼りに、そのバックナンバーのおいてある図書館を探しました。
目黒区立守屋図書館にありました。
だんだん、先天性胆道閉鎖症というものが分かりはじめたのです。

それまで人ごとでしかなかった、「生肝体移植」と言う文字を同時に調べるのとさほど変わらないことが解りました。

当時生肝体移植をしている病院は、日本では信州大学と京都大学しかありませんでした。
海外へ行かれた方もいらっしゃるとのことでした。
その際には、渡航費を含めて二千万円ほど準備しなくてはならず・・・・。
親御さんの会は、そのような費用を募金で集めようとする意味もあったようです。

こんな沢山の費用は、募金でなければ普通は用意できないでしょう。

仕事の合間合間の、下調べなのでそんなに順調に全てを理解することはできませんでしたが、かえってそれが良かったのだと思います。
変に知識ばかり身について、先走ることが無かったから・・・・。

国立小児病院へは、時間の許す限り通いました。
飯坂も退院し、面会時間いっぱいっぱい、時に少し早く行きすぎて、時に延長して看護婦さんに催促されるまで、はかなげな小さな命に付き添ってました。

検査入院は一月間です。
その間に、今後の予定も立てられていました。
五月の連休後に開腹手術をして、実際のところ臓器がどの様な状態か調べ、可能であれば
そこで処置をする。
可能でなければ・・・・。

何もせずに閉じる。それは移植を意味することでした。

新生児室の面会時間は、一人の赤ちゃんにたいして一人の保護者しか入れませんでした。
飯坂が白衣と帽子をまとい中にいるとき、僕はガラスごしに写真をたくさん撮りました。
他の患者さんや保護者が写らないように・・・・・。

それは、想像したこともない様々な先天性の難病を抱えた新生児が沢山いたのです。
殆どがケースの中にいました。また、殆どがとても小さかったのです。ビックリするほど。

看護婦さん達とのコミュニケーションも増えました。
主治医との面談もありました。

生後一月の赤ん坊のお腹をメスで開くのです。
治って欲しいとは思いましたが、女の子です。
その事を思うと、何とか開腹手術をせずに治らないものかと・・・・・。
知り合いのドクターに尋ねました。

そんなとき、お腹に小さな穴を空けてカメラを入れ行う手術があることを知り、その話もしたところ、まだまだ技術が発展途上だから、やはり開腹をすすめると言われがっかりしたことを、覚えています。

また、ある方は新興宗教の世界へお誘い下さいました。全くの善意です。
集会場?(元来お寺や神社と言われている場所でしょう)にも何度か御一緒させて頂きました。そして、いよいよ、明後日手術だと言う日に、とても親しい知人から紹介された中国人の気功医師と会うことができたのです。

これで、治れば、「奇跡の気功」なんてマスコミが飛びつきそうですが・・・・。(笑)
確かに奇跡もあると思います。
宗教の力も、気功も疑ってはいません。夢も叶うでしょう。
でも、やはり叶わない夢も、力及ばない宗教も、気功治療もあるのです。
特に時間が限られていたのですから・・・・。

四方八方に手を尽くし、手術前に僕たちができる限りの情報を探し、手を打ちました。
 
そして、五月の連休が終わった日。
生後一ヶ月の天使の大手術が始まりました。

全く、自分でどうすることもできない大きな時間が音をたてて流れていて・・・。
僕は不思議なことに流されず、ただ一カ所にとどまってその流れを眺めている様でした。
                                  Yoshinori.K

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スピーチ上手になる。

 料理教室では料理もさることながら、会話で伝えることも必要なのです。   

 ここによい本があります。

  

  もし誰かとよい関係を
  持とうと思ったら、話し方は・・・・。大切でしょう?

  でも、殆ど何気なく覚えた自分流の習慣に基づいた話し方だと
  思います。
  ここで一冊、話し方の技術というものを読んでおいても損はない
  でしょう。
  
  僕は・・・・。「昨日(10/1)購入しましたぁ。!」(笑)
    キャンペーンは終わってしまったけれども、如何ですか?
  

  僕も講師業をやってますから、本来きちんと勉強すべきだったの
  ですが、料理を作ることで言葉が補強されると言う料理講師故に、
  結局は独学です。(笑)

  でも、もし人前で話す機会がある方で、多少なりとも不安に思わ
  れていらっしゃる方は、これ一冊読まれるとうんと気持ちが楽に
  なるのでは無いでしょうか?

    あっ、勿論ビジネスマンだけじゃなくて・・・・・。
  スピーチにご興味があるのなら、どなたでも、お手にどうぞ。
  
  「ビジネスマンのためのスピーチ上手になれる本」
  (同文館出版)羽田 徹 著
  

  朝礼や会議、結婚式や交流会、セミナーなど、人前で話をしな
  ければいけない場面は多いです。
  しかし、人前で話すのが嫌だと逃げていられないことも・・・。

  この本は、話し方はセンスではなく技術だと断言しています。
  それは、技術を身に付ければセンスに勝てるということ。
  本書を読んで、「脱!話しベタ」! です。(^ー^)v

                           

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キャトル・キャール Vol.28

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

四月四日に心音が止まり、緊急帝王切開で無事に生まれた子供は女の子でした。
とても小さくて見えました。
新生児室に寝かされました。

飯坂の病室は廊下を隔てた向かいにありましたので、すぐに顔を見る事が出来て安心でした。しばらくすると、今生まれたばかりの新生児が入ってきました。また、しばらくすると・・・・・。

みんな元気よく泣いています。
でも、その女の子は泣きませんでした。
泣いている赤ちゃんが見えるのだろうか?
首をそちらへ向けて・・・・・。何というか・・・・。
慈しむ?

もし言葉が出せたなら・・・・。
「もっと泣くのがいいのよ。お泣きなさい。」
「私は、もう十分泣いたからいいの。・・・・」
まるで、そういっているような雰囲気で見ていたのです。

ちょっと不思議に思いました。
変わった赤ちゃんかもしれない?・・・・。

翌日仕事に行った僕は、休憩時間にドクターへ電話しました。
勿論御礼もありますが・・・・。
今まで見てきた、飯坂に対する処置への疑問点を尋ねようと思ったからです。

その電話で、僕は言われました。

「生まれたお子さんは、先天性胆道閉鎖症の疑いがあります。」
「とりあえず専門病院へ転院させることをお勧めします。これから転院の手続きに
移ります。このお電話で同意して下さりますか?」・・・・・。
僕は、理解しようにも、しようがなかったのです。

全く知らない病名をいきなり言われました。
ただ、その静かな言い方と「先天性」という音が僕の頭の中に響いてました。
それは、調べなくても重大な疾患があると容易に想像させるのに十分でした。

そこで待って欲しい気持ちなど全く起こらず、「お願いします」と頭を下げている僕が
いました。

転院は明日の夕方と言うことでした。
都合がよいことに、4月のセミナーはまだはじまっておらず・・・。
午前中から病院に行き、主治医の説明を聞きました。

殆ど頭には入りませんでした・・・・。
ただ、お母さん(飯坂)は術後の身体で、1週間ほどの入院が必要なため
搾乳した母乳を僕が届ける事になると言われました。

転院の予定時間になり、赤ん坊は透明のなにやら解らないけれども沢山の管が
ついているガラスケースに入れられました。
小さな身体が尚一層小さく見えました。

彼女は、泣きませんでした。
ただ黙って、忙しく動く回りの人々を大きな眼を見開いて見ていました。
そこには、僕の顔もありましたが、ベットにいる飯坂の顔はありませんでした。

ヘルメットをかぶった、救急隊員によってそのケースは救急車へ運ばれました。
僕は、ただただ、訳も分からずそこについて行くだけでした。
外はもう暗くなっていました。

救急隊員の後に付いて行きながら、病室にいる飯坂を思いました。
赤ちゃんと一緒に退院するために用意していたおくるみやらタオルやら、紙おむつ、
ベビー肌着が、残されていると気がつくと何かこみ上げて来そうになりました。

これからどうなるのだろうか?
何がはじまるのだろうか?
全く予想が出来ないのです。
救急車は、とてもゆれました。
僕は必死にケースを止めているアルミのフレームを握りしめました。
右に左に車は容赦なく曲がります。
一体どこへ行くのだろう?
いつまでこの道は続くのだろうか?
手はいつしかびっしょりと汗をかいて、アルミのパイプが滑ったのを覚えてます。
僕には長く長く感じた時間も、後でよく考えると15分位だったのでしょう。
救急車は、転院先の病院に到着しました。

詳しい場所も病院名も聞かぬままにいえ、言われたかもしれませんが記憶にないのです。

看護婦さんが二人待っていました。
患者は皆病室に入っており、面会の時間も既に終了していたせいか、誰もいない
廊下をまだ名前も付いていない僕の長女はガラスケースの中、運ばれました。
後ろを付いて行く僕には、様子を伺うことはは出来ませんでしたが眠っているように思えました。

「ここは何処だろう?」
「何故、僕はここにいるのだろう?」
きっと事故を起こした後、病院に運ばれた時に感じる様な気持ちだったのです。
生まれてから三日目です。
新生児室に長女は連れて行かれ、そこの小さなベットへ移動されました。

その時僕は、病室に入ることが出来ませんでした。
ガラス越しに室内を見るだけです。
特に僕がいる必要もなく、面会時間も終了していたので受付で手続きをして帰ることに
なりました。

人がまばらになった受付の緊急窓口に行きました。
提出すべき書類を確認、記入しサインをして僕は病院をでました。
振り返ると「国立小児病院」という古びてはいるけれども、何処か重厚な看板が目に入りました。

新生児室にいた看護婦さんが言っていた「検査入院」という言葉だけが、頭の中に浮かびました。
「いつまで入院するのだろう?治るのだろうか?」

外はすでに真っ暗でした。
時計も持っていませんでした。
何時だろう?ここからどうやって帰ろう?

考えることが面倒になった僕は、丁度通りかかったタクシーをひろいました。
右も左も解らないのでした。
救急車に乗った病院はどうすれば行けるのだろう?

黙って病院名を告げました。
運転手は、うなずくとアクセルを踏み込みました。
どっと疲れが押し寄せてきた僕は、シートに深く沈み込んで行くような感じがしました。
解らないことだらけで、空回転をし続けた僕の頭は、考えることをやめてしまいました。

しばらく走るとにぎやかな通りに入りました。窓に映る景色は、見知らぬ街でした。
飲食店やコンビニが賑やかなお祭りのように見え、その祭りの中で沢山の人が入り乱れて
練り歩いているように見えました。

今さっきまでいた病院の静けさとは全く違う喧噪に僕は戸惑いました。

そして、その賑やかさを見ているのに苦痛を感じた僕は目を閉じました。
刹那、フッと深いところへ落ちて行く心地よさ・・・・・。
「お客さん着きましたよ」という声にハッとして、目を開けました。

「わぉっ!」さくらが満開でした。
それも暗闇に真白い大きな光の輪が幾重にも闇夜を照らしていました。
「綺麗!」僕は思わず息を飲みました。

10日ほど前、破水による緊急入院をしてから、毎日この病院に通いました。
昼間、空気はだんだん温かくなりつぼみが開き、いつしかこの病院の回りは全部桜だっことを知ったのです。

それを知らなくても、この時期に生まれた子供です。
何も知らない義父は、「桜子」なんていう名前はどうだろうと、生まれた直後にかけた電話口で嬉しそうに言っていた事を思い出しました。

「桜子?」
おいてきてしまった僕の長女は、「桜子」という名前なのだろうか?
しばらくその桜を眺めていた僕は、「桜子?」と呟いたとたん、われに帰りました。
料金を払い終えて車を降り、病院の入口に向かいました。

面会時間は終了していましたが、事情を説明したところ、「名前を記入して、15分ほどでもどって下さい」と言われました。

病室の飯坂は、まだ起きてました。
僕の頭には今行った病院の地理的位置が分かっておらず、静かな古めかしい病院。そして小さな赤ちゃんばかりの病室。ガラスケースとピッピッという金属音だらけの場所を・・こんな事が訪れなければ決して知ることがなかった病室を説明しました。

彼女も、胆道閉鎖症とは何か?国立小児病院とは?・・・
全く知らなかったのです。
                                  Yoshinori.K

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絵本を読む料理人=ペンキや=

「ペンキや」

絵本を読む料理人(笑)が選んだ二冊目は「ペンキや」 作・梨木香歩 絵・出久根育 

料理セミナーと食事があくまでも主体ですから、絵本を読む時間は15分以内と言うことで、8月に前半、今月に後半と・・・・。

泣く泣く2回に分けました。

セミナーで頭を使って(笑)

食事でお腹を使って(爆)

絵本で、ちょっぴり心が・・・・。

月に一度、皆様本当にお忙しい中時間を工面して御参加下さいます。僕ができることは、簡単で美味しくて、お洒落で、プチゴージャスで、安心できて・・・。腕が上がって・・。そんなルセットを作ること。

その後に、ホッと元気になれる料理を作ること。

そして・・・・・。二年間考えて、考えて・・・・。自信はあったけれども料理教室で何故?と思われてしまうような気がして・・・・。

それだけが怖かった。

けれども、沢山の方が楽しみにして下さっていると知り、幸せを頂きました。本当にありがとうございます。

シンヤが、人生に色を塗っていったように・・・。僕は人生に味を付けているのだろうか?それとも、人生の味を引き出しているのだろうか?

30回(練習+セミナー14日間)読んだ絵本と今日、お別れです。シンヤ君ありがとう。

                            

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朝陽の中で微笑んで

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分かれ道 VOL.27

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

料理講師の定職に就いた僕は・・・・・。
飯坂とこの先どうしてゆくのがよいのかと少し考え始めました。

飯坂は既に当時白山にあった名店「La bell de jour」(ラ・ベル・ド・ジュール)でソムリエールとしてバリバリ仕事をしていました。
そして、巴里にいる時にかなり身近に接していましたから、どう考えても
家庭におさまるタイプではないし・・・・・。
店を持つには、先立つものが二人とも全くないどころか・・・・。
マイナスだったのですから。(笑)

とはいうものの、二人でいると料理の話は尽きず・・・。
性格は全く正反対。
価値観もかなり違う。
レストランに関してはかなり近いものは持っていそうだけれども・・・・・。
僕と違う部分でかなりの頑固者でした。(爆)

果たして、上手くやっていけるのだろうか?

考えているうちにお互いに無いもの、僕は料理の、彼女はサービスのプロなんだと、
誰かが僕の頭の中でささやきました。
問題が起きたとしても、理性的に解り合うことは可能だろうと思い始めました。(笑)

後にそれが、全く甘い考えてあったと気づいくのですが・・・(爆)

お互いの家族を紹介しあい、籍も入れ自然に飯坂のおなかも大きくなってゆきました。
不思議なものです。
今まで人ごとだったのですが、こうして間近に経験すると人間とはやっぱり動物で、そしてあの映画「エイリアン」を考えた人も、やはり人間だから考えたのだなと(笑)
飯坂が言いました。

「何か得体の知れないものが、自分の意志と全く関係の無いところで自分のはらわたを触っている。今まで、決してさわられる事が無かった部分を・・・・。 このいいようのない恐怖のような気持ち悪さは、何だろう。」

僕としては、「ふーん」と聞くより術はなく・・・。
そんなものなのかとうなずいてました。(爆)

僕は、会社員の様に、定時の地下鉄で通う日々になりました。
飯坂の毎日は知りませんが、いつの間にか近所の女性歯科医と友達になって一緒に夕御飯を食べる仲になっていました。

会社員のようにとは言っても、料理の世界です。
夜のクラスは晩ご飯の時間帯なので、片づけ終わって帰れば0時に近い事もしばしばです。

それでも夜のクラスが無ければ、夕方に帰る日もありましたから・・・・。
今までの世界では考えられない自由を得た、それはまるで監獄から釈放された様な気持ちでした。

ふと思いました。
僕の友人の料理人で子供を授かった者が何人かいるのですが・・・・。
朝早くに家をでて、帰宅は深夜。
日曜開店の店であれば、幼稚園や小学校の運動会、学芸会もままなりません。

ホテルや上場会社のレストランならいざ知らず、街場のレストランは労働時間も休日も人並みでは無いのです。
昔よく言われました。

料理人と美容師は、労働基準法適用外(笑)
おおむね職人仕事というのは、自ら覚えたくて入って来ることが殆どなので、時間だぞと言われても、終わらず働くことが多いのです。

そして、自ら働く人間を、誰もやめろとは言えないものでした。

だんだん、僕に料理教室の話が来た理由が・・・・。
わかり始めたのです。

友人、先輩達は、一様に「料理教室!?」と言ったけれども・・・・。
巴里から帰国したとき、料理人として働くことを半ば止めるつもりだったのに・・・。

きっとバリバリの料理人になる気が失せていたから、料理教室という職場に何の疑問も抱かずにお世話になる気持ちが起こったのでしょう。
引き寄せている現実。
そして引き寄せたものが未来をまた引き寄せている。

僕はそれまで未来は自ら作るものだと思っていたのです。
原因は自分にあり、その結果未来が作られるのだと・・・・。
ところが、自分の全く手の届かないところで、すぐそこにある未来が作られている事を知り始めました。

生まれた子供は女の子でした。
とても難産でした。
三月の末に生まれる予定で入院したのですが、カレンダーは四月に変わってました。
その子は、甘えん坊だったのです。おなかの中にずっといたかった様でした。(笑)

病院の回りは桜が満開でした。
地下鉄の駅からバスに乗って病院まで行きました。

まるで病院へ行く花道の様に咲いているのです。
その時僕は、一般の料理人より自由に動ける時間が持てたので、それなりに長く飯坂に付き添うことが出来ました。

そして、今のりあん同様、第1週目にはクラスが無かったので、より時間を気にせず
病院にいることが出来ました。

こんな事を、計画的に作ることは無理です。
自分で作ったのでは断じて無いのでした。

心音計が二つあることを不思議に見てました。
あぁ、新しい生命体が本当にここにいるんだ。
とてもしっかりした心音に思いましたし、廻ってくるドクターもそういいました。

四月四日目になりました。
ふと気づくと、しっかりしていた心音が心なし小さくなったように思いました。
あれっ?

消えたのです。

これは何を意味するのだろう?
僕の頭は混乱しました。

「死」?

昨日まで、元気な赤ちゃんですねと言われていた、この心音を僕たちに送り続けていた
生命体が死ぬと言うことだろうか?

かなり慌てながら僕はナースコールを押しました。
ドクターも看護婦さんも一気に集まりました。そしてベットを移動し手術室へ向かったのです。緊急帝王切開が始まりました。

あまりにも知らないことが次から次へとやって来て、僕は地に足が付いていなかったように思います。

手術が始まってどの位たったのでしょう。
何処にも行けず手術室の扉の真ん前でたっていた僕のところへ、アルミニュウムの様な
ものに来るんだそれこそ小さな猿のような生物を(笑)看護婦さんが持ってきました。

本当に小さかったです。
「赤ちゃんもお母さんも元気ですよ」と言い残して、すぐに彼女は何処かへその小さな生物を持ってゆきました。

へなへなと座り込んでしまうような安堵とは、このことだったのでした。(笑)

僕は我に還り、近くの公衆電話を探しました。
そして、手術室にはいる前、飯坂に言われていた順番に電話をかけました。
一軒、また一軒報告の電話をする度、現実を感じ、なんだか嬉しいような、こそばゆいような・・・。

でも、その後ろにだんだんと見え隠れするものの正体が何なのか?
何で全部見えないんだろう?

それはあまりに大きすぎて・・・・。
僕が生まれてから出会ったことが無いほど、大きな知らないものだったのです。
そしてそれが、こんな形でやってくる、それもすぐにやってくるとは・・・。
喜びの電話の中にいる僕には知る由もありませんでした。
                                          Yoshinori.K

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にいさん いせひでこ著

◇絵本を読む料理人 vol.1

料理教室で、毎回心に響く本を紹介しています。

去年からずっと斉須政雄さんのご著書、「十皿の料理」を

一章ずつ読みました。

料理の大切な事が書かれているから。

技術も大切ですが、それと同時に知っていたいことが

この本には書いてありました。

一年かけて終わってしまったので、先月から料理書以外に

目を向けてます。

先月ふとこの本が目に留まりました。

すぐに購入しました。(Amazonで)(笑)

そして抱いて寝ました。(笑)

教室でそれをお話ししたら・・・・・・・。

「読みながら寝たんでしょう」と言われました。

う~ん。否定できない僕がいましたが・・・・・・。

読んでいて、生きてゆくことの切なさ、哀しさ、愛おしさ・・。

テオと一緒に感じてしまったのは僕だけだったのだろうか?

                        

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帰る日 VOL.26

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

C・D・G(シャルル・ド・ゴール、パリ国際空港)では、友達数人が見送りしてくれました。
到着しときは独りぼっちで降り立ったこの空港(それも早朝で人気もなく余計に寂しかったです)から、友人と二人して、見送りの友人までいる状態で帰ることになるとは夢にも思いませんでした。

一人なら感傷的になるところでしたが、気心の知れたメンバーですからいつもと変わらぬ調子で空港まで行きました。
荷物はトランク1つだけ。巴里で購入した料理本は、エールフランスに勤めていた友達に頼んで少しずつ日本へ運んでもらいました。
(大変だったでしょう。有り難うございます。一生忘れません。)

他はたいして財産的なものが無かったので、とても気楽です。

来た時に履いていたスニーカーは、革靴に変わり、着ていたウインドブレカーはトレンチコートに変わったくらいです。(笑)

飛行機に搭乗しても、昨日までとなんら変わることのない雰囲気同士なので、何を思う
間もなく・・・・。
夕べの送別会の夜更かしのせいもあって、すぐに二人とも寝入ってました。

一度食事の時間に起きて、あとはうつらうつら寝たり起きたり・・・・。
こんな時間は殆ど過ごした事が無いような十数時間を過ごしました。

本を読むわけでもなく、音楽を聴くわけでも映画を観るわけでもなく・・・・。
となりに座っている智世さんと、ポツリポツリ、日本に帰ってからの仕事について話しました。

「ねぇ、東京に帰ったらどうするの?」
「実家は横浜?だったよね。あっ、弟が成田に車で迎えに来てくれているから送るから」
「えっ。いいのに・・・。でもありがとう。私は、多分アパートを中目黒当たりに借りる かな?前にいた事務所が恵比寿だから・・・・。」
「で、一応そこで仕事があるか打診してみて・・・・。
 もしかしたら、すぐに仕事が決まるかもしれないしぃ。そうだといいなぁ・・・」

「ところで、かわな爺はどうするの?」(友達の中で僕が一番年長だった)
「どうしようかな、星の数ほどある東京フレンチだからどこかに仕事はあるよ」
とは言ったものの、仕事のないことは既に知ってました。

帰国を決めたときに、僕をフランスへ送り込んだ(笑)先輩に連絡したのです。
その時に、「バブル崩壊」という言葉を初めて聞き、「シェフポストは殆ど無いよ」
と聞かされました。

それに、実の事を言うと・・・・。僕は料理人をやる気が失せていたのです。

今まで、料理を覚えたくて必死に過ごしました。
料理に恋してました。
それは、料理人になる少し前に別れてしまった彼女との空白を埋めるかのように・・・・。
  詳細は(笑)→「愛される料理Vol.318」=失われた時を求めて=                 URL;http://ameblo.jp/riant/entry-10093651088.html

休みも欲しくなく、とにかく覚えたいことをやるために、空白な時間を作りたくなくて
何でもやりました。
結局、フランスにまで来てしまったのです。
そして、フランス人と直に話をして、仕事を手にしました。

当時、何のコネもなく、「あたって砕けろ」の飛び込み営業の様に、いきなりお店のドアをノックして仕事先を見つけている料理人は僕が知る限り皆無でした。
また、料理修行に来ていた料理人の中で一番稼いだ方だと思いました。

僕にとって大切だったのは、星付きレストランの梯子でもなく、有名料理のコピーを集めることでもなく・・・・・。

コネを使わずに自分でフランス人とぶつかり仕事を見つけ、その仕事はこちらから授業料を払うというようなバカげた研修扱いでなく、それ相応の報酬を得ることでした。

三ツ星レストランを六軒、都合八年間もフランスで暮らした先輩から言われました。
「馬鹿かおまえ、日本に帰ったら肩書きだよ。全て・・・・・。本当に青いんだから」

でも、もう終わりました。

そんな風に思えたのです。
実家に帰り、荷物をほどき、有効期限の切れた免許証を更新し、挨拶回りをし・・・・。
友人の結婚式に出席したら、街には、気持ちの早いサンタクロースがあちこちにお目見えし始めました。

そんなとき、浅見さんと言う先輩がシェフをしている店の手伝いをして欲しいと言われ、
彼の店で働くことになりました。

久しぶりに働くキッチン。
寝ていた僕の職人がムクムクと動き始めました。
身体に馴染んだ仕事です。

情熱が無くなったとは言え、動き始めれば、いつしか無我夢中になってました。
クリスマス期間中、働きました。
27日まで働き、28日の夜、オーナーが、トゥールダルジャンへ招待してくれました。

やっぱり、フレンチレストランで働く事になるんだろうなぁ。
名物の鴨料理を食べながら、そんな思いが頭をよぎりました。

考えればもう三十を越えたのです。
今まで、身体が覚えたことを他の仕事でやったなら、これからどれだけの時間がかかるのだろう?
それに、あの頭の中が真っ白になった状態で動き回る充実感が、忘れられないのでした。

この12月のヘルプが、料理人から離れた気持ちを再びつなげてくれました。

その頃、巴里で知り合った知人から、料理教室の料理長という仕事を紹介されました。
料理教室といっても、約300名も生徒さんがいて、殆ど毎日の昼夜にクラスが
開講されていました。

また、講義と食事という、それまで僕が抱いていた料理教室のイメージとはずいぶんと
変わった場所でした。
お話を伺いに青山の教室へゆき、講義風景を見学させて頂きました。

オーナーご家族は、芸能界関係者との事でしたが、そちらに全く疎い僕は、大変失礼
だったと、今でも思っています。

全く料理教室の料理長という仕事が想像できず気後れしていた僕は、ここにいるスタッフの指導やメニュー開発の責任者という立場なら、僕の能力で何とかなると思いました。

先輩や友人達に「料理教室で働くんだよ」と言うと「えっそれ何?何するの?」と言った返事が返ってきました。(爆)

これが後々の僕の人生を支える仕事になるとは、その時は全く思いもしなかったのです。人生というものは、また、ご縁というものは本当に不思議です。

2002年の1月。
僕は正式に、青山にある料理教室○○○ズの料理長となりました。

1月、2月とスタッフの技術フォローと新メニュー開発をして・・・・。
助走です。
3月になったら、応用コースの講師を担当するように言われました。
この日が、今の僕の出発地点です。

自分で作ることだけを考えて来た職人です。
世間一般では、そのような職人は監督、コーチ向きではない。人に教えるのが下手。
と相場が決まっていますし、僕自身も人様に教えるような柄じゃないと思っていました。

経験も、願望も全くなかったのです。
「思考は現実化する」とは、いったい何処の誰が定義づけたのでしょうか?
(ナポレオン・ヒル博士御免なさい)(爆)

「無・思考は現実化する」が本当です。(爆)

小学校の日直と生徒会副会長就任のご挨拶以外、教壇に立ったことがない人間です。
それが、いきなり20名の生徒さんの前に立ちました。

そして、生まれて初めての料理講師業が始まったのです。

説明の仕方、講師としてのノウハウなど全く知りません。
自分で納得したように、そのルセットを説明し始めました。

帰国して3ヶ月もたっていない当時、調理用語が・・・・・。
カッコつけている訳じゃないのだけれども(笑)・・・・・。
フランス語が先に口に出てしまうのです。

翻訳しているわけでなく、その動作は、その言葉(仏語)となっているのです。
その材料も、その言葉(仏語)なのです。

初めての教壇で何が一番大変だったかというと、頭の中で同時通訳していた事だったの
です。(笑)
                                          Yoshinori.K

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走馬燈 VOL.25

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

飯坂が日本へ帰った頃、秋の気配が巴里を包み始めました。
2シーズンお世話になった、小川さんがシェフを勤めるキャフェも、料理人のバカンスが全て終わったので、僕のポジションはなくなりました。

自分の味覚を試すことも、星つきレストランの仕事をすることも、日本人の全くいない環境で暮らすことも・・・。

普通に、巴里のバゲットを食べ、チーズを喰らい、ワインは・・・残念(笑)
映画も観光も、そこそこ楽しんだ方です。
やりたいことは、一応やってみました。
短かったけれど飯坂とあちこち歩き回り、思いもよらぬワインツアーも体験しました。

そういえば、前回書き忘れましたが、サン・テミリオンにも、足をのばしました。
ここは、本当に綺麗な村です。
こんなに綺麗な村は見たことがなかったです。(笑)
見たことがないって言うけれども、他に何処を知っているかって?

ランス、アルザス、コルマー、ディジョン、マコン、ボージョレ、リヨン、ヴァランス、ヴィエンヌ、シャモニー、ニース、カルカッソンヌ、ラギオール、ナント、カーン、シェルブール、ヴェルサイユ、パリ・・・・ぼちぼち一周です。

実はフランス料理修行を始める2年前。
先輩と後輩と3人でグルメツアーをしました。
50万円と往復チケット。レンタカーで毎日三ツ星を食べ歩きました。
その時に、上に書いた街のグルメ街道を走ったのです。10日間フランス食べ歩きです。
レンタカーにスーツをつめて、例えば林の中で着替えて三ツ星へゆくのです。
または、近くの安宿に宿泊し、スーツに着替え歩いて向かったのです。(笑)

閑話休題
もうすこし、巴里で暮らすことも、出来たのですが・・・・。
友人の結婚式と、母からの手紙。
そして、プロダクトデザイナーの女友達が帰国する事を決めたので、
じゃあ一緒に帰ろうかとなりました。「1991年10月17日」

巴里に来たのは、「1988年3月4日」でした。
1988年は、二つ星レストランで働きました。

1989年は、フランス人だらけの郊外のcafeでシェフをやりました。
その年の冬から1990年の初夏まで、7区のショコラチエで働きました。
そして、夏から晩秋まで、小川さんのキャフェで働きました。

また、その冬から翌年1991年の初夏まで、マンハッタンのフレンチレストランで働きました。
初夏から晩秋まで、また巴里にもどり小川さんのキャフェで働きました。

最初の二つ星は、殆ど喋ることがままならぬからこそ、身体中でフランス人とぶつかりました。よく笑いました。精一杯喋ってみました。
真剣に怒りました。言葉の幼稚さを笑ったフランス人をどつきました。(笑)

そして、その店を辞める日に、大泣きしました。(爆)

この店の入り口付近をウロウロした日。
黄色いチューリップの花束を右手に抱え、片言にもならぬフランス語で、今、僕の横にいるシェフと喋ったあの時間。
そして、働けることが知らされたあの電話。
生まれて初めて入るフランス人の厨房とそこで作られる料理。
オーダーや仕込み、ソムリエとギャルソンの顔が次々と・・・。

「走馬燈のように」という表現はこのことなのだったのかな。

その店の次に働いたフランス人労働者の集まるキャフェでの一人仕事は、飛ばしすぎて、途中から自らの箱に入ってしまったのでした。
山ほど積まれた皿を洗いながら、こんな労働をしに来たのでは断じてない。と自分に叫んだ瞬間。

仕事を探してあちこちの店に飛び込み、断られ続けた泣きたくなるような日々。そんな僕に声を変えてくれたパティシエの拓さん。

テンパリングもろくに知らない僕にチョコレートの魅力を見せてくれた、
ミッシェル・ショーダン氏。

最初のふた月は、やることなすこと注意されてばかりだったのに、後半は僕を信頼して下さりショコラチエにならないか?なんて・・・・(笑)

ミッシェル・ショーダン・ジャポンの設立と、彼との別れ。
僕は彼が雇った最後の日本人スタジエと言うことだったのです。

さて、また仕事を探さなくては・・・・。
そんな時に訪ねた小川さんの店で、ずっとお世話になるとは・・・。

毎日のように小川さんを訪ねてくる、威勢のいい料理人達。
巴里に来た多くの日本人料理人は、ここに挨拶に来ていました。

「川名君、○○さん知ってる? じゃあ××君は?・・・。」

芸能人も知らないけれども、フランス料理業界の方のことも知らないのです。

そんな小川さんには、大変お世話になりました。
ご自宅へ招かれて、日本食晩餐会とか・・・。
「巴里じゃドライブなんかしたことないでしょう」と彼の車で環状線のドライブに誘って下さったり。

ささやかではありますが人間らしい生活を味わいました。
この時、少し見えたのです。幸せの正体が(笑)・・・・。

そして激震のマンハッタン(笑)
「エキサイティング」の一言でした。
とにかく動き回りました。
それはプライベートも、キッチンも。

巴里は一人の時のんびり散歩とか映画、読書だったのですが、NYは違いました。
セントラルパークのジョギングか、マンハッタンのビルの中にあるスポーツジムでプールと、マシンづけでした。僕は遅番なので、16:00出勤でしたから遅めに起きて朝食、洗濯、掃除、買い物、散歩をすませ、昼過ぎにジムへ入り2時間ほど汗を流してました。痩せていた僕も、僕の人生で最高の「マッチョ」になりました。(笑)

仕事も早くて大量だったです。
キャッチボールの出来る厨房なんですから(爆)
ここで、2時間で100皿以上の魚料理を作りました。
単純に1分間で一皿。

身体は頭になり、頭は身体になり・・・・。
無我夢中を越えてました。
そしてこんな時は神経が研ぎ済まされるので、オーダーミスが全く無かったのです。

次から次へと入るオーダーを全て把握しました。
オーダーが入るとき、調理するとき、仕上げて出すとき。
全てが機械のように淡々と動いていたのです。

ジムとセントラルパークで鍛えておいてよかったです。
そうじゃなければ僕は、途中で倒れたでしょう。

2時間の集中攻撃が終わったとき僕のコックコートは透けて肌にピッタリ張り付いてました。そして立ちつくした僕の身体は、酸欠のためかブルブルと小刻みに震えていたのです。
それを見たブラジル人のセルジョが、アメリカ人のマイクに言いました。

「マイク、YOSHIを見ろ。ほら身体が小刻みに震えている。あんなに一気にこなすとこんなになるんだな。よくやるよ。」といいながら、タオルで扇いでくれました。

12月1日から5月31日までの半年間の契約終了。
巴里へ帰る時が来ました。

僕がNYにいる間に、何度か友人を送りに行ったJFK空港へ僕は一人で向かいました。
半年前より、出来ないなりに度胸だけついた片言の英語で、搭乗手続きを済ませ・・・。

僕は、後部座席窓側のシートに何も考えずに座っていました。

ジェットエンジンの音が大きくなり機体は走り始めました。
飛行機が離陸する瞬間を、今でも鮮明に覚えてます。

前輪が地表を離れグイッと身体がシートに押しつけられ一気に空へ向かう。
その地球の重力に逆らう圧力を、不自然に感じながら小さな窓の外を見ると、斜めになった地上に今まさに着陸しようとする機体が一機目に入りました。

離陸しようとしている本機と着陸しようとしているあの機体には、どんな人が乗っていることだろう?

大きな夢を胸に秘めてこのNYにやってくる人々。
そして、夢を叶えてこのNYを離れる人々。
そして・・・・。
夢破れてこのNYを離れる人々。

僕の頬に、涙がスーッと落ちました。

何故?
それは、大切なものが僕の中から確実に去って行く。
あの着陸する機体に、その背中が見えたからなのです。

その瞬間、そこに向かって何かを叫んでいる僕の声が、聞こえたような気がしました。

「来週、巴里を飛び立つとき、何が見えるのだろう?」
日本へ帰ることを決めたあの日、そんなことを思いました。

                                          Yoshinori.K
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聞かせてよ愛の言葉を

「聞かせてよ愛の言葉を」=佐々木秀実=by youtube

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シェルブールの雨傘

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踊り子

       =村下孝蔵= 「踊り子」 by YouTube 

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父親達の誕生日ケーキ

今日は、長男の10回目の誕生日でした。

一流料理人(笑)の父親が長男のために作るケーキをご紹介します。

世の中のお父さんに作って欲しい・・・かな?!(笑)

それは、こんなケーキです。

Photo_3 

何だとお思いになりますか?

???

彼の大好物です。

それはオレンジ色のメロン。

もし僕が、やれオペラだ、やれフォレノアールだ・・・・。

それ、シャルロットだと・・・・。

「お父さんは忙しいけれどお前のために作ったよ」といわんばかりに作ったとして、彼のこの笑顔が得られたでしょうか?

メロンの皮を全部むいて、真ん中にろうそくを立てる穴をあけます。

ロウが垂れても大丈夫な様に、大きなミントの葉をこれから添えます。

ろうそく(導火線)に点火します。

大きな爆弾よろしく、導火線が短くなります。

楽しい一時でした。

僕は何もせず、メロンの皮をクルクルむいただけ。

因みに彼が1才の時。豆腐が大好きでした。

僕は豆腐を2丁買ってきて、大きな皿の上でピタリとくっつけて

12センチのケーキ型でくりぬきました。

円形の豆腐が出来ました。

真っ白いケーキとも言えます。

彼はイクラも好きでした。

そのケーキの円周に点々とオレンジ色の宝石のようにイクラを並べたのです。

ソースは、醤油でした。(爆)

ケーキを作ったことのないパパ。

こんなケーキをあなたの愛する人にいかがですか?

ママのようにオーブンは上手に使えないかもしれません。

ママのようにあま~い溶けちゃう様な香りは作れないかもしれません。

でも、きっと世界一の微笑みが・・・・・・。

「パパ、好きだよ!」

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ミッシェル・ブラ VOL.24

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

マルゴーからボルドー市街へもどった僕たちは、夕食のためのレストランを探しました。
駅周辺をくまなく歩きました。
ミシュランの赤本も持ってますが、やはり自分の目と鼻と・・・・。
お店から出てくるオーラで味を見つける方が確実でした。

かなり慎重に探しました。
予算は限られており、でもファストフードや適当にチーズとパンですますことはつかれていたせいか、何となく侘びしくて嫌でした。

いい食事がしたい。
豪華絢爛は望まない。
騒がしい音楽も、ざわめきも欲しくない。
胸を張って出てくるソムリエも、サービスも結構。
時間を慈しむのにふさわしい料理と空間を求めただけです。

何軒も店の前で立ち止まりました。
メニューを見て、値段を見て、店内をのぞき見して、客の入りを計って。
表通りは比較的に大きな店で、そこそこ入ってました。
また値段もそんなに高くもなく、気がゆるんでいたらつい入ってしまうような店ばかりでした。

でも、気がゆるんでなかったのです。(笑)更に探しました。
店がまばらになったので、右に折れてみたら、もうレストランはありません。
振り返り、今来た道をもどろうとした時に、更に入り込む細い路地が見えました。

行ってみると片側通行の細い路地でした。

この道は・・・・・・。
表通りとうって変わり、小さな店が肩を寄せ合って並んでました。
何となく期待はずれしそうな店も多かったですが、学園祭の模擬店のようで興味が沸きました。

いわゆる、只の観光客なら絶対に入らない様な少し、危険な匂いのする路地でした。
でも何故か、足が勝手に吸い込まれて行くのです。
十メートル程入ってきましたが、やはり期待できそうなレストランは無かったのです。

さすがに、そろそろ二人とも昼間の疲れが出てきて、意気地無くなり、表通りのよさそうな店にもどろうか、と話していた矢先紺色の日除けの突き出た店が目に止まりました。

小さな店でした。15席あるのだろうか?
焦げ茶色で統一された入口は、あまり目立たないのですが、上品さを感じさせ、きっと美味しい店だろうと思わせたのでした。

店頭にかけてあるあるメニューを見ると、「軽く蒸したひな鳥」とか、「あたたかいサラダ」とか「小海老の小さなタンバル」とか、どれも素直な感じの料理を彷彿させました。

値段はコースで¥4,000程でした。お客様は・・・
小さな窓があったので、ちらりと覗いたのですが、誰もいそうにありません。

僕の身体は、ここだと言ってます。
飯坂の方を見ると、うなずいています。

扉をあけると、若い女性と料理人がいましたが、入ってきた僕たちに気がつくと料理人は奥(きっとキッチンでしょう)へ引っ込みました。
店内を見まわすと、縦細の日本だったらさしずめ寿司屋か、炉端焼きかそんな感じでした。

余計な装飾は殆ど無く、都会的な明るい内装で、ホッとしました。
ボルドーの街は総じて古く建物も黒ずんでおり、何となく湿った感じの暗さがあったので、歩き回っているうちにその重苦しさに少々毒されてきているような気がしていたのです。

入口近くに少しばかり広い場所(カウンターがこちらまでのびていないため)があり、ここが上客の席だろうと思いました。

若い女性(多分ご夫婦で営まれているのできっとマダム)は、案の定、誰もいない客席の中からその席を僕たちに案内しました。
予約が入っていないときは、よい席からすすめるのが、レストランの常です。

メニューを見て飯坂はビックリしました。
「ここ、グラスのシャンパンがある・・・・。」
「私。これにしよっと。」

僕は相変わらずペリエですから、マダムに「グラスのシャンパンとペリエを・・・。」と注文しました。

すると、その美しいマダムは、とても困った顔をして言いました。
「申し訳ございませんが、ただ今グラスのシャンパンを切らしておりまして・・・」

僕は、飯坂の顔を見ました。
飯坂は、さもわかっていた風に、ハーフサイズのボルドーを注文してました。
飯坂は、いつもハーフサイズの注文について僕に文句を言っていました。
えっ、何故なら僕が飲めないから、フルボトルを注文できないのです。

ハーフサイズは味も銘柄も限られているのですから・・・・。(笑)
さて、ペリエとハーフサイズのワインがテーブルに揃ったので、料理を注文しました。

プリフィクススタイルのコースでしたが、同じテーブルでは同じ料理を注文する事になっていたので、二言、三言お互いの希望を伝え合った結果、若鶏とマンゴーのサラダと仔羊のローストを注文しました。
注文が終わるとマダムはキッチンの方へ姿を消しました。

おもむろに飯坂が僕の方へ顔を寄せ、小さな声で(大きな声でも解らないのですが)先ほどの説明をしてくれたのです。

「今日はきっと予約がないでしょう?私が何杯飲むか、彼女は考えたのね。東洋人で、女性で、多分若く見えたと思う(笑)。きっと1杯しか飲まないだろうとふんだの。そうすると、シャンパンを抜栓してしまうと、損してしまうのね」

ほー、そういうことだったのか。
最初に飯坂が驚いた理由が分かりました。

この店のどこに魅力を感じたのだろう?店内を見まわし物思いにふけっていた頃、前菜が来ました。
ローストとした鶏胸肉をスライスしてマンゴーの角切りを散らしてありました。
それにたっぷりではありますが、下品にならない程度のサラダがこんもりと綺麗に盛りつけられていました。

僕たちは無言でそのサラダを口に入れました。
二口目、三口目。ただ、黙って口に入れました。そして、二人で顔を見合わせました。
「旨いよ。これ」「ほんとだね」・・・。

僕は、その時もしかしたら仏蘭西で食べたサラダで一番美味しいサラダを食べたかもしれないと思いました。
ローストした皮の旨みとマンゴーの凝縮された甘みがビックリするほど「BON-MARIAGE」(よい結婚→よい組合せ)だったのです。

歩き疲れた僕たちにとって、予想を大きく上回る珠玉の味に巡り会えました。
メインの仔羊も、シンプルですが、丁度よい焼き加減で、繊細さと、ジューシーさをそのまま出してくれたのです。このそぎ落とした美味しさに僕は、とても魅了されました。

隠れ家の様な店でした。
きっと、若い二人が、精一杯の資金で始めたお店だと思いました。
最後までお客さんは僕ら二人だけでしたが、さりげない笑顔と物静かなサービスで、とても心地よい時間を過ごせました。

さりげない本物を感じました。いつかこんな店をやってみたい。
この一瞬間は、僕の意識の奥底にゆっくりと沈み落ちて行きました。

実は、ボルドーまで行くことが決まったとき、どうせならミッシェル・ブラまで足をのばそうと思いました。
今では、北海道の洞爺湖畔のホテルに、支店が入っているので日本でも有名ですが、僕がパリにいる時に、料理人の間で一番話題の店でした。

何せ、普通の料理人修行の道を歩まずに、ミシュランの二つ星(当時、現三ツ星)を取ってしまったのですから・・・・。

ミッシェル・ブラのある場所は、ボルドーから東に移動した山岳地帯のラギオールと言う村です。
鉄道の駅からは、かなり遠くバスは1時間に1本でした。それもお昼間のみ。
丁度出たばかりで、後1時間も待っていたら日が暮れてしまうのですから、仕方なくタクシーを使いました。

タクシーの運転手は、日本人を初めて乗せたと言って、とても喜んで途中でいいところをお見せするよと車をスタートさせました。
内心は、ちょっと不安にも思いましたが、何せ穏やかな田舎の村です。
山の中に捨てられることも無いだろう・・・・・。(爆)

連れていってくれたところは、断崖絶壁の沢でした。
そして向こう側には、燃えるような真っ赤な岩肌が切り立っていました。
それは、土中の鉄分が雨と空気にさらされ錆色に染まった巨大な岩の壁でした。

ここの土地は非常に鉄分が多くて、この村の特産物は鉄製品です。
ご存知のナイフ、フォーク、スプーン、包丁です。
加えて、肉牛も育てていて、その牛の角を使った柄が特徴です。
実は今日本で沢山出回っている、ラギオールのソムリエナイフですが・・・・。
僕らが行った当時(1991年)、一つも無かったのです。

ラギオールの村は、全長で1kmあるかないか・・・・。
村はずれは、ただひたすら山の中に消える道につながります。
その山道のある一カ所にだけ人々が集まり集落をなし村が存在しているのですが、その山道(一応国道だと思います)なりに鉄工芸品と、牛の角工芸品を扱う店が並んでいて、他にホテルとレストランとまばらに農家と畑・・・。ちょっと観光事務所。・・・その位が全てでした。

そしてその販売店には、沢山のナイフがありました。
飯坂は、目を光らせました。(笑)
ソムリエナイフを探したのです。

ところがTの字型のコルク抜きはあっても、ソムリエナイフが無いのです。
どこにも、どの店にも・・・・。はじからはじまで探しました。
飯坂は、常に持ち歩いているステンレス製のソムリエナイフを見せました。でも、どこの店でも首を横に振られたのです。

当時、ラギオールには只の一つもソムリエナイフが無かったのです。(笑)
ガッカリして多少の土産物を買い、夕食のためにミッシェル・ブラへ行きました。
リゾート地ですから、お客様はみな、かなりラフな服装で来ており、ホッとしました。
僕らはコース料理ではなくアラカルトで注文し、尚かつ野菜料理ばかり頼みました。
ミッシェル・ブラの売りは、この地で取れた野菜料理なのです。

飯坂は、自分の好みのワインを注文しましたが、何を頼んだのか聞きませんでした。
ただ、注文が終わると、マダムが近づいて来て、こう言いました。
「貴方は、料理人ですか?」・・・・・。
もろ、ばればれです・・・。(汗)
観光できた日本人が、長いことメニューとにらめっこして、こんな野菜ばかりの注文をするわけが無いのです。(爆)

「将来は、お二人でレストランを開くのですか?」
さてぇ。その当時飯坂も、僕もそんな話をした事はありませんでした。
日本に帰っても二人とも無一文ですし、まずはどこかの(飯坂は既に決まっていましたが)店でかなり長いこと働かなくては、店など持てるわけがないことを知っていました。

また、僕は、長野でレストランをやらないかという話があるにはあったのです。

ただ、やはり夢として、僕は自分の店を持ってみたいと思ってましたから、否定したくはありません。
つまりは、なるようになるだろうといった漠然とした状態でした。
その気持ちの裏側には、自分の問題だけでなく、飯坂の人生を巻き込む事への責任が何となく怖くもあり、決めかねていたのです。

でも、そこら辺のニュアンスまでフランス語で伝えることが出来ず、「はい。そうです。」なんて答えている、いい加減な僕がいました。(笑)
結局のところ、この日から4年たたないうちに、りあんを開店しました。

願い続けても叶わない夢があるのに何故叶ったのだろうと、考えたことがあります。

それは、心の中に、叶う夢の掲示板と、叶わない夢の掲示板があり、店を持つことは、叶う掲示板にしっかりと書き込まれていたのだと、・・・。

ある日誰かが、僕にささやいたのです。

                                          Yoshinori.K

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マルゴー VOL.23

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

飯坂が日本に帰った後、僕は長く続けたほぼ一人の生活にもどりました。

僕には、何人か巴里に友達もいましたが飯坂は、何かあると小川さんのキャフェに来るか僕のアパートに来るかしかありませんでしたから、夕食は僕と一緒にする日が多かったのです。

彼女の料理は、ちょっと変わってました。(笑)
よく言えば、大胆(爆)

僕は、レストランの料理ばかり(自分で作って)食べてましたから、とても新鮮でした。
今でも沢山のヒントをもらったと思ってます。
特によく作っていたのが、ポトフ。

こういうとかっこいいですが、レストランではないのですから決まりがあるわけでなく、ただ何でも煮込んでました。
何で煮込みが多いのか尋ねてみたことがありました。

そうしたら「たった一つの電磁調理器というものでは、私にはこんな風にただ煮込むものしか作れない」と言いました。
これは、あながち間違えた選択肢ではなく、それどころか一番失敗の少ない調理法でした。
                      
「肉の種類が多くてなんだか解らないけれど・・・」なんて言いながら作ってました。
その種類とは、部位のことです。
日本では、フィレ、ロース、バラ、肩ロースなどをみんな薄切りにしてますが、フランスは、それらの部位を全て固まりでうっているわけですから、こりゃ何だろうと思って当然です。

料理人と言っても肉屋ではないので、僕も知らないものだらけでした。

彼女は一度海老をたくさん買ってきて、オリーブオイルとニンニクで「ガーッ」て焼いてデンと出してくれた事がありました。
ずいぶん豪勢だなぁと思いました。世話になっていた彼女なりのお礼だったのでしょう。

フランスは魚介類が高いのです。
僕はそれまで自分で食べる食材に魚介類などを買ったことがありませんでした。
高い割には、日本の方が美味しいと思ってましたから。

でも、日本のように世界各国から輸入しているわけでなく、ブルターニュや大西洋の鮮度のよい魚介類が入っているのも確かです。
こくがあって美味しい海老でした。

そういえば飯坂が、帰国する前にボルドーに行きたいと言い出したので、どうしたらよいか小川さんに尋ねたことがありました。
そしたら、オーナーに相談して下さったので、なんと「シャトー・マルゴー」のシェフを紹介して下さったのです。

シェフと言っても料理長でなく、現場の責任者の方です。駅長もシェフです。(笑)

普通フランスを旅するなら車ですが僕はあいにく車がないですし国際免許もないです。
その為国鉄を使いました。それ以外はひたすら歩く。(笑)
タクシーなんて、もってのほかです。(爆)

「シャトー・マルゴー」に一番近い駅名は?そのものズバリ「マルゴー」だったかな?
そこからひたすら歩きました。歩いて歩いて。
丁度夏のバカンスだったのでしょうか、人影の全くないシャトーの門を足を引きずる様に入っていったのです。

中に入っていくと初老のコンシェルジュがいらしたので、「巴里のムッシュー・Cから紹介されて、ムッシュー・Rにお会いする約束になってます。」と伝えました。

「それはようこそ、しばらくお待ち下さい」と言われ待ってました。
しばらくするととても大柄なそして、優しそうなR氏が現れ挨拶を交わしました。

彼は、沢山の樽が並ぶ倉庫を次々と案内して下さり、また樽を作る作業場や、観光客が訪れるちょっとしたテイステングルーム。・・・・。それから・・・・。

飯坂は専門ですからさぞ嬉しく楽しかったでしょう。
僕は意味も分からず、ただ飯坂の通訳(拙すぎるけれども)をしてました。

2時間ほどでしょうか。
ほぼぐるりと案内が終わり、さてこの後は、どこかに見学に行くのかね?
と尋ねられました。そんな予定はなかったのですが、飯坂が隣のシャトー・パルメに行きたいと言いました。
そしたら、じゃあ紹介するよと言って下さったので、予定外にそちらも回ることになりました。

隣のシャトーと言っても・・・・・・・。
延々と続くブドウ畑。だからなのか、建物は思ったより近くに見えるのです。

うそぉ~。また歩くのぉ。・・・・。
なんせ、自家用車以外は通りませんしそれさえも滅多に出会うこともなく。・・・
その遠くて近い(笑)隣のシャトー目指して歩きました。

こちらには観光バスが1台入っており、なんだかそのツアーの後ろにくっつく感じで見て回ったのです。

シャトーを2軒見ることが出来て、飯坂は満足そうでした。
延々と国鉄の駅まで歩くのですが、ずいぶんと楽しげに歩いてます。
やっとたどり着いた閑散とした駅前に1軒だけキャフェがありました。
ボルドー行きの電車時間を見るとまだ40分ほどありました。

僕は疲れてしまったのとトイレに行きたくて、飯坂とそのキャフェに入りました。
長時間、明るい外を歩き続けたので、やたら暗く湿っぽく感じました。
思ったより広い店内はがらりとしてました。
とりあえず、入り口に近いテーブルに腰掛け、僕はペリエを注文し、飯坂はビールを注文を取りに来たマダムに告げました。

注文が終わったので、そのマダムに「トイレは何処ですか」と尋ねると、裏だと指さしました。
僕は飯坂を残しテーブルからたち上がり扉が開いている明るいカーテンに向かって歩きました。
そして、そのカーテンをくぐると・・・。

一度キャフェの建物から外に出たのですが、その瞬間やっと暗いところに慣れた目がまぶしさに負けてしまって・・・。それに疲れも重なっていたのでしょう。
クラクラと立ちくらみの様な感じになりました。

急いで扉に捕まりしばらく目を閉じた後、開けてみると庭にたっている自分がいました。

「えっ?ここは何処?」まるでワープでもしたような気持ちでした。びっくりして何が
起きたのか・・・。頭がちょっと混乱してました。

でも、振り返ると今までいた席が見え飯坂が座ってます。
ここは、そのキャフェの中庭のようなところだったのです。
もしかしたら畑だったかもしれません。草花や、ハーブが咲いてました。

見るとすぐに小さな小屋がありました。
そしてそこまで草の生えていない小道が続いていたので、あれがそうかと思い、進みました。
何処を歩いているのだろう?なんだかおとぎ話に迷い込んだ様な気持ちになりました。
歩いても歩いてもその小屋にたどり着かないのです。
時間が遅くなったような錯覚が起きました。
ようやくその小屋にたどり着き目的を達成した僕は落ち着いて外に出ました。
よく見るとその小屋の脇の方で、いすに座っているおじいさんがいました。

そのおじいさんの目が僕の目と合いました。
僕は「BONJOUR」と軽く挨拶をしました。
おじいさんも「BONJOUR」と・・・・・・。そして、

「何処から来たのだね?」
「ベトナムかい?それとも中国かい?」と言うので、僕は頭を振って、
「日本です。ムッシュー」と答えました。

彼は「日本か?私は知らないな」と言いました。
この知らないと言う意味がどの程度知らないなのかは、聞きもしませんでした。

多分、彼にとって初めて出会う日本人だったのかもしれません。
そのようなフランス人には沢山会いましたから。
きっと小さな頃からこの畑で暮らし、ボルドーのワインと、ソースボルドレーズに包まれた肉料理を食べて育ってきたのでしょう。

「何しにこの村に来たんだね」と訊かれたので、そこのシャトーを見学に来たことを拙いフランス語で伝えました。

そうすると彼は、「ふーん」といい、次に・・・・。
「私は、日本を知らないが、見学したいとも思わない」と言いました。

それは、その言葉はしばらく僕の胸に止まりました。そして思いました。
何故、フランスに来たいと思ったのだろう?
日本では、見つけるものがなかったのだろうか?
フランスに行くことを当たり前のように思い、この国へ足を踏みいれた自分。

巴里にはそんな日本人があふれてました。
何かをつかんで帰国する人。訳あって、自らの意志とは裏腹に帰国せざるを得ない人。
いつの間にかこの地を祖国とし、それまでと全く違う人生を歩もうとする人。

僕は、・・・・・。
そのおじいさんにただ一言「さよなら」と言って、飯坂が待っているキャフェの中へもどって行きました。
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誰も寝てはならぬ

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スティーブ・ジョブス伝説のスピーチ

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永遠が見える日

「永遠が見える日」=松任谷由実= by YouTube

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What a wonderful world

「What a wonderful world」=Satchmo=  by YouTube

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帰国 VOL.22

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

パリにある二軒のレストランで働いた飯坂は、とりあえず渡仏の目的を終えた様でした。
そんな時、僕はと言えば、さてこの先どうしようかと思案にくれてました。

飯坂は日本でソムリエ職が決まっており、そこのオーナーシェフから「帰ってこいコール」がかかっているようでしたが、僕は仕事の当てがあるわけではありません。

このままパリで仕事を探そうと思えば、どうにかなりそうですし、
生活費も料理人なら東京ほどかからずにすみそうです。

時間も、そりゃ料理人を真剣にやれば東京だろうとNYだろうと、多少きついのは
当たり前ですが、何というか時間がたおやかなのです。
情報が極端に少ないせいもあるでしょう。

果たしてこれが良いことなのか?
ただ、日本にいる母は、帰ってきて欲しいと思っているはずです。

丁度その頃、飯坂が間借りしていた部屋の女性が、僕の友人の料理人と結婚する日取りを決めたので、その披露宴に出席してほしいと言われました。

そして、日本から国際電話で「そろそろ帰ってきなよ」と重ねて言われたのです。

料理を作っている事自体は、何処でも同じです。
フランス料理をするには、フランスが適しているのですが、今の東京でしたら食材にも
道具にもそんなに不自由はありませんですし、僕の場合は、「醤油は使わないぞ」と
言ったバリバリのフランス料理を作りたいとも思っていませんでした。

そうなると、いくらバブルが崩壊した後とはいえ、東京ならこだわらなけれ仕事くらい
あるだろうし、お金を借りて、お店を持てるかもしれない。
なにより、僕の作る料理は好まれるだろう。

日本人なのですから日本で仕事する方が落ち着くに決まってます。

また、ほったらかしの免許証、住民税・・・・その他。
それ相応にすることが望ましいのは言うまでもありません。

何人の友人を送りにシャルル・ド・ゴールへ行ったことでしょう。

飯坂が帰国をする日、空港まで送りに行きました。
また、知り合いを迎えに行ったこともあります。

その度に、僕は帰るところがパリにありました。
勿論違法滞在ですが、自分の居場所というか、
暮らしていると言う気持ちがとてもしっかりとあったのです。
だから、送ったり、迎えたりしながらも、何のこともなく自分の居場所にもどって
暮らせたのです。

空港では、あまり普段と変わらない会話をしました。
僕はまだ帰国する日にちも、その決心もしていないので、何とも言いようがないでいると、彼女は、連絡先を書いてよこしました。

東京のフランス料理屋で仕事をすれば、どこかで連絡することは可能ですし、何かの折に彼女の働く店に食事に行くことも出来ます。

ただ、僕の心の片隅に、それまでの人生であまり感じたことのない、
何とも言いようのない空虚な気持ちが大きくなっていることを僕は知ってました。

それは、これから僕は、何をしてゆくのだろうか?
と言った、漠然とした不安でした。

何だか、「気が抜けてしまった」のです。
23才から料理を作れるようになりたくて、なりたくて・・・・・。
必死になって追いかけてきて、よっこいしょと気がついたらパリにいたのです。

いつも、目の前に何か壁がありました。
そしてその壁は、僕の情熱を奮い立たせたのです。
そして、いつもその壁にぶつかってきました。乗り越えたいと思いました。

その乗り越えたい気持ちを抑えきれずに今まで来ました。

これから、東京で活躍するぞ。
と、その時になって、僕を動かしてきた原動力が日に日に小さくなってゆくのを
感じてたのです。

飯坂のある意味お世話をしているときは、すっかり忘れていた感情です。
ところが、彼女が次の目的に向かって帰国する日。

僕の心の中に、置いてきぼりを喰らうような寂しさと、次に向かう場所のないどうしようもない焦りが・・・・。

それまでの必死な思いの代わりに、ものすごい勢いで広がってゆく様を、
僕は止めようがなかったのです。

パリの星つきレストランで仕事をし、「パリに滞在するなら忙しいときに手伝って欲しい」とその店のオーナーに頼まれるまでやり、その後フランス人だけのキャフェで料理長
(と言っても一人(笑))をやりました。

その間にNYへ出稼ぎに行き、祖母の味がそこでも通用することを確認したのです。

また、パリで何人もの優秀な料理人を指導してきた小川さんからは、
「川名君くらい力があるならいい店のスーシェフ(セカンド)をやってから日本に帰れば」とまで、言っていただきました。

でも、僕は、何故か空虚で独りぼっちでした。

いつでも、独りで動きました。
独りで店を尋ね、日本人のいない職場を望みました。
勿論小川さんは日本人ですが、こちらで籍を持ちパリ市民として生活されているのですから、僕の言うところの日本人とは思わず、小川さんのもとでもその感覚で働くことが出来ました。

休みの日も、食事も、散歩も、映画も殆ど独りでしたが、
全くと言っていいほど、「独りぼっち」を思ったことがなかったのです。

日本には、家族が待っているのです。帰る場所はあるのです。
にもかかわらず、空港で僕は自分が知っている気持ちの中で一番寂しさを感じてました。
学生の時につき合っていた彼女と別れる時のような寂しさではなくて、
何故かとても静かな寂しさを感じました。

飯坂がゲートに消えてから僕はひとりエールフランスのバスに乗り、パリへもどりました。
何も考えずに、ただ、ボーっと窓の外の風景を眺めて続けました。

バスはいつの間にか、ムンムンとむせ返るような街中に入りました。
どこもかしこも見慣れた風景です。

「きっと、もうそんなに長いことこの街にはいないだろう。」
そんな気持ちが僕の心に満ち溢れてました。

自分の部屋にもどったとたん、疲れがどっと湧き出てきました。

床に直に置いてあるベットの上に、死にものぐるいで走りきったマラソンランナーが
ゴールで待っているコーチのタオルの中に崩れるように倒れました。
そして、しばらくうつぶせになって目をつぶってました。

何分ぐらいそうしていたでしょうか、ごろりと仰向けになったとたん、
このアパートをかりたあの日のような青空が目に入りました。

次の瞬間、観音開きの窓の外の全くパリに似合わない真っ青な空から、
その白々しく冷めたような空気が、僕の瞳を通して胸の中の奥深いところに静かに
音もなく流れ込んでくるのを感じました。
                                  
                                           Yoshinori.K

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ラペルーズ VOL.21

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂が僕の働いていたcafeにきてから、それまでの秩序だった生活が多少崩れました。(笑)

彼女は、ジェラール・ベッソンで約束の期間を無事に過ごしているようでした。

僕は、内心驚いていたのです。
何故って、料理人の仕事は、腕さえ何とかなれば、会話が無くても成り立ちますが、サービスは、会話が全てでしょう?

その当時の飯坂のフランス語は・・・・。
どう考えても・・・でした。(爆)

だから、怖くてどんな仕事をしていたのか、未だ聞いたことがありません。

聞かない方がいいのかもしれません。(笑)

実は、飯坂は2軒のお店で働ける事になってました。
これも、何軒ものれんの前で(因みに、本当ののれんはありません)(笑)断られた経験を持つ僕にとっては、うらやましい限りでしたが。

仕方ありません。
オーナーの友人というコネの威力です。

で、そのもう一軒というのは・・・・。
メチャクチャ古いレストラン「ラペルーズ」 http://www.restaurantlaperouse.com/

聞くところによると、1766年に開店ですから、もう240年以上たってます。
最初は居酒屋だったのを、1850年にレストランへ大改造したそうです。

パリにある最も古いレストランの一つですからつぶせないのでしょうが、
きっと維持費が莫大にかかるはずです。
何代もオーナーやシェフがかわっているそうです。

たまたま、その当時のシェフと、僕がいたcafeのオーナーが友人だったということです。

ヴィクトル・ユーゴー、バルザック、デュマ、コクトーなんかがお客さんだったとか聞きました。(フランス語だからなぁ、間違えて聞いてるかもぉ)
店内の鏡には、どこかのお姫様がダイヤの指輪で刻んだ傷があったりして・・・。

セーヌ右岸には、同じくらい古いお店、「グラン・ヴェフール」があります。
http://www.grand-vefour.com/fr/histoire.htm 

ここは確か小泉元総理が食事に行かれたことで日本でよく知られたと思います。
僕はこの店がある、パレロワイヤルの庭園でジョギングしてました。
きっと世界中探しても、こんな奴いないと思います。(笑)

一番古いのは、「トゥール・ダルジャン」かな?1582年ですから。

皆様ご存知、「マキシム」は1893年ですから思ったより新しいです。
とはいうものの、「ラペルーズ」が古すぎるのです。(笑)

あっ、こんな話しセミナーではしないですからもう少し・・・。
リュック・ベッソンの映画「ニキータ」で使われた重厚なレストランを覚えていらっしゃいますか?

それは「ル・トラン・ブルー」→ http://www.le-train-bleu.com/
この店は、パリのリヨン駅にあります。開店は1901年です。
ここの天井は豪華絢爛。映画でもばっちり撮してましたが開いた口がふさがりません。
昔は、故ミッテラン元統領や、ブリジット・バルド-が良く訪れていたようです。
上記したURLで開くページのフォトギャラリーは是非クリックして下さい。
一見の価値有りです。

「フロール」「ラ・ペ」「ドゥーマゴ」「セレクト」「フロ」「リップ」「クーポール」等々文学cafeと呼ばれたり、芸術家のたまり場といわれた店々は、殆ど今から100年前、1900年の前後に開店しています。

そうそう、キャバレーの「ムーランルージュ」もこのあたりです。それはベル・エポック。古き良き時代です。

今思えば、全部訪ね歩いて写真を撮っておけば良かったです。
その当時は、料理ばっかり目がいって、食指が動く料理を出すお店以外にあまり行きませんでした。

写真も、今のようにネットで簡単にデータを流せるなら・・・。

お金は使えない、荷物は増やせない。とばかり、ろくに写真も撮らなかったです。
どちらかというとフランスに到着した頃の写真の方が多いです。

やはり、仕事をして生活が落ち着いたので、日常があまりにも自然となりすぎ、写真を撮る気持ちが起きなかったのです。
また、昔から写真より肉眼で感じたい。という気持ちが強いタイプでした。

それで、ガールフレンドの写真も全くありません。(爆)

今、僕が持っている一番多い写真は・・・・。
「料理写真」!(笑)

ずいぶん話しが、横道にそれてしまって・・・。(^^ゞ

ジェラールベッソンへは、食事に行きませんでしたし、飯坂も誘ってはくれませんでした。
そりゃそうですね。
フランスで、初めて働く店ですから、知り合いがきてくれても迷惑でしょう。

ところが、順応性にすぐれているのか、ラペルーズには、「来たら」と言ってくれました。
丁度、友人の妹が観光で来ていたので、その妹さんを中心に4、5名で押し掛けたのです。

幸いなことに、日本からの団体さんも入っていなかったので、とても静かなディナーとなり、飯坂のサービスをうけ、最後にはオーナーが出てきて、彼女に「あなたの友達へ好きな飲み物をサービスしなさい」と。

皆そんなに酒に詳しくないですから、彼女におまかせしたら、りあんにも置いてありますが「ヴァンドゥナチュレル」が注がれました。

食事の後、店内を案内され、その昔逢い引きの場所として使われただろう小部屋やあの部屋の中の鏡につけられた指輪の後や・・・・。

そうそう、10名様ほど入る部屋に入った時、飯坂が日本人の団体さんの話をしてくれました。

丁度数日前、この部屋に日本人ばかりが見えて、その部屋のサービスを担当したそうです。

お客様は、彼女をまさか日本人だとは思いもしないで、(こんな古典的レストランで日本人が仕事しているわけがないと思われたのでしょうか)英語で話しかけたそうですが、勿論、飯坂は英語より日本語の方が得意ですから(爆)、日本語でお返事したそうです。

そうしたら、普通「あっ、日本人だったのね」といわれそうなものですが・・・・。

な、なんと、・・・・。

「あら、あなた日本語がお上手なのね・・・」

飯坂は頭の中が「?????」。

その後黙ってサービスしたそうです。
僕は、その話しを聞いて笑いながら、非常に納得しました。

今でこそ、全く日本人ですが(笑)、初めてcafeを訪ねてきた時の彼女の会話は、とても流ちょうな日本語とは言えず、何処の国の人だろう?
いや、日本人だけれど、海外生活が長いのだろうか?というくらい、
かわった日本語を喋っていたことを鮮明に覚えてます。

日本なら、そうは決して思わないのですが、パリやNYで長いこと色々な国籍の人々と接していたせいでしょう。

すぐに、そう思ったのです。

そうそう、その日本の大勢様の話には、続きがありまして・・・・。
皆様お食事を終わられて、テーブルをたたれた後には、5F硬貨がきちんと人数分置かれていたそうで・・・・。

飯坂は感心するような、笑いたくなるような不思議な気持ちだったそうです。
                                  
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地上の星

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なごり雪

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流氷の物語

先日とても素晴らしい写真集に出会いました。

それは・・・http://homepage2.nifty.com/riant/riantHP6.html

あっ!間違えました。それはりあんの料理写真集です。(笑)

本当は、「流氷の物語」

アザラシの赤ちゃんの写真集ですが、かわいいだけの

写真は見ることがあっても、こんなに素敵なのは他に

あるのでしょうか?

特に最後の6ページで感動に拍車がかかります。

「母親は、約2週間しか子育てをしないが、過酷な自然の中では、

それが精一杯なのだろう。

短いが凝縮された母子の時間が過ぎる。

昼寝から起きた赤ちゃんは母親を呼び、慌ててやって来た母親は

お乳を与える。

お腹が一杯になった赤ちゃんは幸せそうに、ごろごろして宙をみる。」

                        =小原玲=「流氷の物語」

                           

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もとの生活へ VOL.20

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂がパリの二つ星、ジェラール・ベッソンで働き始めて数日。僕は、cafe勤めですから、朝が早く夕方には仕事が終わってます。一方、飯坂は、通常のレストランですしサービスですから朝はゆっくりで夜が遅くなります。

困ったことがあれば、僕のアパートへ来るか、留守なら扉の下へ手紙を入れるか、または仕事先のcafeの方へ電話をくれるでしょうから、何も起こらず順調なのだと思ってました。

僕は、飯坂と知り合う前と同じ生活に戻りました。

仕事が16時に終わると、地下の倉庫へおりていき、汗ばんだコックコートを脱ぎ去り、履き古したジーンズとトレーナーに着替え、何食わぬ顔で、いや貧乏学生旅行客の顔でパリジャン達であふれる街に紛れ込むのです。

若い子達で占領されている茶色と黄色のMac(日本では赤と黄色のマクドナルド)を横目で見ながら足早にメトロの入口におりてゆき、なま暖かい空気の中で地下鉄をまちます。

そして一度アパートに帰り、デイパックの中身を変え近所の市営プールまで歩いて行き 1000mほど泳ぐのです。いつも、多くの人が泳いでいるので、サッカーだけでなく水泳もかなり盛んなのだなぁと思いました。

巴里のプールは、他にも行ったことがあるのですが、まっすぐ泳ぐ人が多いので、(それがルールなのかも知れない)とても楽に1000mを泳ぐことができます。

1000m(10往復;長水路です)泳ぎ切ると心地よい脱力感を感じ、温かいシャワーをあびて(パリは銭湯が無いのでここで身体を洗うことが可能です)洗いざらしのバスタオルを頭からかぶります。

この瞬間が大好きです。

・・・でしょう?(笑)
すご~くいい気持ちですから。(笑)

巴里には、コインランドリーが結構あるので、僕は、ある程度給料をもらえるようになってからは、かなりまめに洗濯してました。何というか、何もないから清潔な幸福が必要だったのです。

バスタオルで頭を拭いた瞬間、今日の能動的な動きが終わります。アパートに戻る途中のスーパーで少しの野菜、ハム、チーズなどを物色して、隣のパン屋で1/2のヴィエノワーズ(バケットより柔らかくてほんのり甘い)を買うのです。

3年前のホテル住まいと違い小さな冷蔵庫があり、その中に多少の蓄えが有るからとても気分が楽です。
でも、あの頃より豊かな生活なのですが、買ってくるものはさして変わりません。料理人は仕事中、いい食材を使って、時間をかけてますから、自分一人のものとなると実に淡泊で、簡素です。

前述したもの以外は、・・・。そうだなぁ、せいぜい果物とヨーグルトかフロマージュブラン。決して、完全加工品(できあいのもの)は買いませんでした。

プライドとか、何とかじゃなくて、ただ単純に嫌いなのです。

巴里のアパートは殆ど電磁調理器具です。古い木造で隣り合わせにつながって作られているため、火事が起こったら大変ですから。
その為、炒め物よりつい煮込みものを作ります。

テフロンの小さな深めのフライパンに、バターと野菜と水をいれて蓋をする。エチュベと言う調理法です。

今、料理教室でよくご紹介するテクニックは、こんな時に僕が一人で手間なく作るために良く使っていたものです。(笑)

一人の食事ですから、あまり時間をかけずに、味も自分で知ってますし(爆)楽しむと言うより栄養素を補給する。と言う感じでした。

そういえば、かなり忙しい生活をしていたのですが、巴里ではサプリメントって取りませんでした。きちんと食事をする習慣が出来ていたんです。本当に疲れきったのは、途中で挫折した郊外のcafeだけです。ここは、以前にも書きましたが、自分で自分を箱に入れたのが原因です。 → http://riant.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_2753.html

食事の後は、たいてい散歩をしたり本を読んだりしてました。巴里という街は、散歩のためにあるような街だと思います。

そして、それは同姓でも異性でも良いのですが、心から理解し合える人間と共にいれば(本来、そうなら場所は何処でもいいのですが)その散歩は世界で一番美しい時間になると思います。

巴里という街が好きなら、ちょっと滞在してその空気にとけ込めるなら、それは誰でも詩人になれると思うのです。

お金がなかった、TVがなかった、友人が少なかった、・・・・。
電話がなかった、ゲームがなかった、ステレオがなかった・・・。
ビデオがなかった・・・。携帯がなかった(僕は今でも)(爆)・・・。
インターネットがなかった・・・・。

今の日本の生活でできないでしょう?

この時間を僕はもらったんです。 神様から。

いま、あなたが、人生を終わろうとしているなら、どの時間を美しい時間と思えるでしょうか?どの時間が、本当のあなただったのでしょうか?

巴里で暮らした、3年半は、僕にとっての美しい時間に他ならなかったのです。
今の毎日もそうですけれど・・・。
何もなかったから、騒音にかき乱されず、「毎日を味わえた」のです。

本を読んで、目が疲れたら散歩に出かけます。

ここは、セーヌと離れていたので少し残念なのですが、それでも建物を見ながら石畳を歩くだけでいいのです。

セーヌの近くで暮らしていた3年前は、ベットだけの部屋。トイレもシャワーも共同で、いつ強盗が入るかも知れない安ホテルでした。でも、僕は毎日セーヌを、ポンヌフを走り抜けて仕事に行かれたことが本当に幸せでした。

15区で散歩しながら、3年前よりうんと豊かになった生活をしていたにもかかわらず、あの時の幸せを懐かしんでいる自分を、知ってました。

それくらいセーヌは美しいのです。サンルイ島。何処を歩いても、写真の中にいる様です。シテ島は、公的機関があったり、バトームーシュの波止場があったりと機能された島ですから、サンルイ島の様な美しさには欠けます。

巴里で一番好きな場所は?と聞かれたら、僕は、ためらわずサンルイ島というでしょう。

もし巴里に行くことがあるのなら、サンルイ島を散歩するといいです。一人じゃ不安でしょうから、友達と・・・。< でも、おしゃべりをやめて、静かに歩くのです。静かに古い建物を見つめるのです。

そこに漂う宇宙とあなたと、一体になれるから。

僕がそして多くの人も愛した空間、時間。
あまりにも美しすぎて、切なくさえなってくるのです。

でも、帰ってきてね。(爆)
昔は、そうして巴里や異国に住み着いてしまった人がいたそうですから。
実は、僕もかなり危ないところでした。(笑)
                                  
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レミーのおいしいレストラン

お正月にとてもおいしい思いをしました。

ご紹介いただいた映画をDVDで観ることができたのです。

「かつて私は、”誰にでも料理はできる”という、
グストーシェフの有名なモットーをあざ笑った。
でも、ようやく彼の言いたかったことが解った気がする。
      ・・・・・・・。
誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、
誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない。」   
                               =アントン・イーゴ=
           映画「レミーのおいしいレストラン」
                         

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夢より大切なこと・・・。

「Jupiter」=平原綾香= by YouTube

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春よ来い

「春よ来い」=松任谷由実=

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パリのアパルトマン VOL.19

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂が知り合いの紹介で尋ねて来た店に、僕がたまたま働いていたと言う、偶然で知り合った訳ですが・・・・。
彼女は、2つ星で働くことが決まりました。
「えぇっ・・・!」
               
やっぱりフランス人どうしのコネは強じんです。当たり前なのですが・・・。
でも完全に「たちんぼ」だろうな?

「たちんぼ」って、何も出来ない、何もさせてもらえない、何も解らない。
そんな状態です。一日が長くて、とても辛いです。

ただ、本人の顔を見るといたって平静です。

もしかしてよっぽど仕事できるのかな?
フランス語はあまりできないみたいだけれど、ちょっと変わった発音するから英語圏で長く暮らしていたのだろうか?
なら、フランス人以外のお客様の時に、重宝されるだろうな?

飯坂の素顔を知らない僕は、2重にも3重にも好奇心という想像に沢山の色とつやを上がけして見ていたようです。(笑)
実際は・・・。(爆)

さて、ジュンク堂で掲示板をみると・・・。
あります、あります。
短期貸し、ひと月2000Fと出てます。
これならあのホテルの半額で、一月暮らせます。

ただ、場所が今一遠いです。そこは・・・。「モンマルトル」
「えっ?」  「素敵な場所じゃない?」・・・ですか?
日本から思うだけなら、素晴らしいロケーションでしょう。
でも、その当時は、多少物騒なところです。
ましてやレストランで働くと言うことは深夜に帰ると言うことで、
女性一人ですから、ちょっと僕はためらいも感じました・・・。

とりあえず電話をして見に行くことにしました。
メトロの駅は、アンベール(ambert)?か、ピガール(pigalle)?か・・・。
(あれぇ、忘れてる)
この辺は生地屋さんが多くて、東京で言うところの新宿のような雰囲気の街です。
キャバレーもあります。(超・有名な赤い風車(ムーランルージュもここです)

待ち合わせの場所には、日本人の男性が二人。
どうも共同生活をしているアパートのようです。

色々話しをしたのですが、やはりお店から遠いのと、今のホテル(場所)が気に入っているというか安全なのです。それも彼女は感じたのでしょう。

一人で仕事にいって、不安だったり何かあれば、ぐるりと走れば、僕や小川さんの働く、既にオーナーまで知っているCafeがあるのですから・・・。

言わずもがな、僕もそれを感じ、丁寧にお断りし帰路に就きました。
せっかくだから、モンマルトルの丘にちょっと登って散歩してから・・・。
今、思い出すと何度行ったことだろう?知り合いが観光で来る度案内役で回るのはオルセー、ルーブル、モンマルトル、凱旋門、ポンピドーセンター・・・
そうそう、バトームーシュは夜がいいです。食事無しの・・・。
エッフェル塔は以外といかないんですよ。みんな。
東京タワーを知っているからかな?

飯坂はこのアパート探しで懲りたのか、あまり次を探すと言わなくなってしまいました。

そこで、僕が住んでいるアパートの近くに、友人(料理人)の彼女が暮らしているアパートがあるのを思いだし、相談してみることにしました。

フリーランスで巴里と日本で働く彼女は、結婚するつもりの彼が日本に帰ってしまったので、それにあわせて日本での仕事時間を増やし・・・・・。
でも巴里での仕事もあるのでアパートは維持していたのですが、はっきり言って、もったいない位だったのです。

それで、彼女が払っている家賃の半分を負担するのと、時々同居すると言う条件で、ここに住めることになったのです。
そこは、15区。モンマルトルと全く逆方向です。モンパルナスタワーの裏の方とでも言いましょうか、静かな住宅街です。
そうだな、東京で言えば、16区が世田谷区で、15区は目黒区って感じかな?
ここなら、夜メトロから降りても歩いてすぐですし、街灯もあり、そこそこに大きな通りから入ってすぐですから、街の雰囲気も安心を感じさせます。
それに、僕のアパートにも歩いて来られる距離です。
その話しをしてから飯坂の紹介に行ったら、やっぱり女性の部屋ですから気が休まるのか、すぐに気に入って話しはまとまり、ここへの引っ越しが決まりました。

飯坂の本格的な、巴里生活の準備が整いました。
引っ越しを手伝い、僕のアパートまでの道順を教え、時々小川さんの店に顔を出すと言う話しをしながら食事をして、フランス料理のこと、経験のこと、ワインのこと・・。
とりとめもない話しをずいぶんしました。

彼女はソムリエだからやっぱりよく飲みます。
飲む人は、いいです。勝手に飲んでくれるから。(笑)

料理人は飲む人が多いですが、飲めない僕がつき合う人は皆、徹底的な飲んべえです。
そのレベルになると、相手が飲んでも飲まなくても関係ないからです。

彼女も一安心したのでしょう。
かなりいい気分になってます。

これでだいたい彼女の仕事ぶりを感じることができました。
やっぱり、仕事は出来るでしょうし、ワインをよく知っている。

僕はおもしろくなって、ブラインドテストよろしく、彼女が持っていたワイン本からワイン名を当ててもらうことにしました。
が・・・・。全く外れましたぁ。(笑) 

間違っていても、解らなくても全くわびれる風が無いのです。(笑)
なかなか、おもしろい愛嬌です。
「今まで出会ったことのない個性を持った人だなぁ」と思いました。(爆)

ついさっきまで不安だった巴里生活の先行きが見えたからでしょう。
ずいぶん今までとは違うリラックスさを感じたのです。
やはりホテルじゃ高いし、自炊できないし・・・。
僕が初めて見たカード払い(笑)だって、後々の事が心配だろうし・・・。

「ベッソンでのスタジエ期間は2週間だっけ?」
「うん」
では、その2週間と引越祝いそして・・巴里生活に。

「乾杯!」
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ソムリエール VOL.18

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

さて、飯坂のアパートを探すとは約束してしまいましたが・・・。
一般的な不動産屋さんへ行くことは出来ませんから、裏情報を探すのです。
日本人同士での情報交換や、料理人からの紹介。また期間貸しなど・・。

そうそう、ホテルは、キャフェの近くの大通りに面したところに、
小さくて手頃な価格の(約5000円)の部屋が見つかりました。

個人経営かな、なんだかアパートみたいでここで暮らしてもいいんじゃないの?
そんな感じです。
見つからなければ、きっとそうなるでしょう。

僕の場合は、とにかくお金が殆ど無かったので、当初アパートなんて考えても
見ませんでしたし、ホテルだって裏路地の激・キワモノと相場が決まってます。
女性一人じゃそれは、無理というもの。きっとお金があるんだなぁって思いました。

一応、僕がコンセルジュと話して、1ルームでシングルベットの部屋が決まりです。
連泊は、毎朝言ってくれればそれでよいとのことで、こりゃ便利です。

部屋を決めた僕は、(ホッ)仕事帰りですから、お役御免とさっさと引き上げるのですが、彼女としては、小川さんを頼ってきたものの、小川さんが僕に振ったものですから・・。なんだか、話しをしたそうです。

今夜の晩飯くらい、一緒にいた方がいいかな?なんて思ったのですが、荷物の整理や着替えもあるでしょうから、「夕方ここに一度来ようか?」と言いました。

そしたら、そうして欲しいというので、僕はいったん自分のアパートへ帰り時間を見計らって、もう一度仕事場の近くへ向かいました・・・・。

メトロにのって・・・。
エッ、何。停まってるぅ!  えっ、スト? さっきまで動いてたじゃん?

いや、困りました。

去年なら、仕事場からホテルまで歩ける距離でしたが、、今は。メトロ通勤。
「約束したしなぁ」
「独りぼっちだろうし」

パリは、小さな街です。東京の3区をあわせた位と聞いたことがあります。
(どれとどれとどれだか忘れましたが・・・)

確かに、パリに来た年の僕なら、興味も手伝って平気で歩いた距離ですが・・・・。
もう、あらかた散歩してしまって日常生活している今では・・「歩けな~い。」
とはいうものの、緊急事態です。

歩きましょう。
「行かなくちゃ。君に会いに行かなくちゃ、君の街に行かなくちゃ、メトロがない」
(ご存じですか? 「傘がない」=井上陽水=)

なんて口ずさみながら、散歩し始めました。
当時僕は、、NY帰りで(NYで毎日ジムに通ってました)、またパリは区民プールが
とても充実していて、毎日1000m程泳いでましたから、何の苦もなく歩けます。

どの位(時間)歩いたのかな?時計を持たない人でした。
コンセルジュに彼女はいるかって聞いたら、いないって・・・
えっ、何処へ行ったんだろう?

「おりゃ約束守って、ここまで歩いてきたのに」
「ひでぇ女だ」・・・頭の中にポワーンて浮かびました。

コンセルジュに期待しないで聞いてみました。
「彼女、何処へ行ったかご存じですか?」
「あ、知ってますよ。隣のキャフェです。殿方と」

「へっ?何だいその殿方と言うのは・・・。」

かなり、頭に来ました。
「もう、ほっとけ」(爆)
とはいうもののすぐ横のキャフェならのぞいて見ても、いいかと・・・・・。

いました、いました。
ほんとだ、日本人の殿方と一緒にビールなんか飲んでいる。

「ふざけてるぅ~」

僕は、何気ない顔で、彼女のテーブルへ行きました。
そしたら・・・・・。
「あっ、来た来た。遅いから、小川さんのところへ行ったら、この人がいてね」
「料理人だって、小川さんを訪ねてきたみたい」

小川さんを訪ねて来る日本人料理人は、とても多く、ほぼ毎日のように
誰かかしら訪れるのです。

お互いに自己紹介みたいな事をして。。。。

僕が、一番パリの生活者みたいでした。
3年前は、僕もこうだったな。なんて思いながら話しを聞いてました。

パリにいるとこういったお茶の時間がやたらとあるのです。
特に違法滞在者どうしの情報交換が目的のようなものですが・・・。

みんなお金もなく、車もTVもなくて(あっても完全に楽しめてない)
それで一番リラックス出来る娯楽がキャフェでお茶なのでしょう。

話しをしていると彼女は1ケ月位。スタジエをするつもりで来たとのこと。
ここにくるまでに、ドイツとブルゴーニュにいたこと・・・。
北海道の人間であることなどを知りました。

ドイツや、ブルゴーニュを回ってきたから、落ち着いているんだな。
ただ、それにしては、あまりフランス語もできないみたい。
こんな女性がいるんだぁ。根性入ってるなぁ。と感心しました。

夜は、近所の中華へ行き、ホテルまでおくりました。

翌日僕は、8:00~15:00まで仕事ですから、その間は適当に過ごしてもらって
それから、アパートなりなんなりを探すことを伝えました。

昼間は何をしていたのか?今でも知りませんが、午後には小川さんのキャフェに来て
色々話しているうちに、ここのオーナーの友人の店を紹介してもらうことに決まりました。

2軒とも、名店です。(えーっ、何でぇ。うらやましい)
最初は、パリの二つ星の「ジェラール・ベッソン」
今、皆さんにお話ししているリヨンの三ツ星「アラン・シャペル」で修行しM・O・F
(フランス最優秀職人章)を1976年に取ったバリバリの職人オーナーです。

成り行き上、僕は通訳みたいな役目でついて行きました。
客席に、違法労働者を出しちゃうの?
料理人なら考えれませんが、女性、無報酬、短期、友人の紹介と言うことで、
すんなりOKとなりました。

それにしても、「ソムリエって言ったら・・お客さんフランス人が殆どだよ。」
「あんた、会話はどうするの?」
僕の頭の中は、それが心配なのですが、当の本人はいたっていい調子。

「ウイ・ウイ・メルシー」なんて言って笑ってます。(笑)
へぇ~。見かけによらず肝っ玉系ね・・・。(笑)
僕とは、かなり違う人種だなぁ。

色々話しをしていたら、ベッソン氏からひとつ条件が出ました。
「サービス中はスカートをはくこと」
「ホヘッ?」「そんなもんかい」「よく分からないなぁ」「それ個人的な趣味でしょう?」
(あっ、こんな事、間違っても言えません)

と言うことで、飯坂にそれを伝えると「持ってない」
今までのドイツとブルゴーニュは、遊学(ブラブラ)ですから、仕事用のスーツは
持ってないそうで、すぐに近くのブティックを回りました。

東京を出る時、僕は料理修行に行くわけで、みんなが応援して見送ってくれたのです。
その僕が、女性のスーツを買うために、ブティックを一緒に歩いている。
人生は不思議です。明日は何が起こるか分かりません。(笑)

何でも彼女は、日本の製品よりこちらのスーツの方が体に合うとか・・・。
(はい、はい。よかったこと)(笑)結構、格好いい黒服を見つけました。
会計は、お、カードを出してる。す、すげぇ・・・。

パリ生活3年。
その間に、僕を取りまく人々で、カードを使った人間はいませんでした。(笑)

一応、彼女は住むところと、しばらくの仕事が決まりましたが、やっぱりアパートが
よいみたいなので、探し続けました。
そうですよね、いくら格安な部屋と言っても、大通りに面した、オペラ座まで歩いて行かれるホテルです。一月いれば、軽く10万円を超えてしまうのです。

因みに、料理人達が探すアパートはだいたい、一月5万円位まで。
それで、オペラにあるジュンク堂書店の掲示板を見に行きました。

                                                               Yoshinori.K

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遠赤外線ヒーター(カーボンタイプ)

メルマガでご紹介した、2台のうちこちらは、速熱タイプです。

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去年購入して2年目です。

皆様の評判もなかなかよいですし、とても軽いので、

お客様の足下まですぐに運べます。

部屋の角におけるのも便利です。

多分、赤、青、ゴールドが他にあると思います。

僕はこのシルバーを買いました。

                        
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遠赤外線ヒーター(パネルタイプ)

毎朝書いているメルマガでご紹介したヒーターです。

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本体は4センチほどの厚さしかありません。

足をつけてたたせるので、足の出っ張りは必要です。

丁度テーブルの下に潜ってしまう高さなので、(スリムタイプ)

殆どこたつ状態で、「あったか~い」です。

前面に多少ふれても大丈夫そうで安心です。           

                     

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こころのチキンスープ

今日ご紹介する本は、メチャクチャ売れた本ですから

お持ちの方も多いことでしょう。

「こころのチキンスープ」

料理セミナー終了後、5分程度で料理に関する本や

僕の好きな本からのお話をする時間があります。

食べることは生きること。

ならばその食べ物を作ることも、とりもなおさず生きること

につながる。と言った思いから始めました。

紙芝居をにしたこともあります。(笑)

沢山実話ですから、心に迫ります。

毎日の仕事や色々で疲れてしまったとき、

本と食べ物は心と身体を癒します。

オススメです。★★★★★

                          

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自分の小さな「箱」から脱出する方法

こんにちは。

2冊目は、自分の小さな「箱」から脱出する方法

これ、思い当たること沢山あると思います。

普通?に暮らしている人。多かれ少なかれ持っている

人間関係のトラブル。

知りながら、または知らずに閉じこもってしまう自分。

この「愛される料理」でもそんな経験談を以前書いたことが

あります。1軒目のCAFEで1人仕事の時、この罠に

はまりました。僕のその当時の気持ちをそのまま

実感できたので、つい買ってしまいました。

(尚、僕が購入する本は、殆どの場合、図書館で借りて読んだ

中で手元に置いておきたいものを購入してます。)

一人さんの本よりうんと理論的です。

理屈で考えたいときにはおすすめです。

理論的に(笑)★★★★★ オススメです。

                           

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普通はつらいよ

こんにちは。

今、毎日メルマガを書くために、結構な量の本を読んでます。

先日、料理教室の方から、オススメの本がありますか?

と言う質問を受けまして、それを、まとめてブログに。

そんな会話(メールのやり取り)となりました。

少しずつUPしてみます。

自己啓発系というジャンルあたりからいかがですか・・・・。

(小説は好みが、ハッキリと分かれてしまうでしょう。そのうちに)

まず1冊目。ご存じ、齋藤一人さんの講演本です。

「普通はつらいよ」 かなり一人で笑いました。しんみりもします。

いいですねぇ。大好きな本です。本文のCDが2枚ついていて、

読む時間のない方にもオススメです。

(本だけに書かれている部分もあります)

ipodなどに入れておけば、込んだ通勤途中でも

笑いと涙の感動タイムに変わります。

心から★★★★★オススメです。

                          

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ダイナミック VOL.17

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

パリでアパートが決まって、仕事が決まって。
人間は、住むところと仕事が揃うと、実に明るく、楽しく思えるものです。
日本で、真面目に暮らしていると、住むところと仕事が無くなる事って、
滅多にないでしょう?

よほどの場合、リストラとか、強制退去とか?
多分、これをお読みになっていらっしゃる方々は、なかなか経験されないのでは。

例え、期間が決まっていたとしても、それまで安心して住める場所と働ける、
それも報酬をもらえる仕事があると言うことは、幸せです。
当たり前なそれだけで、本当にそれだけで癒されます。
なんか、あったかい布団に包まれるような・・・・・。

おっと、わかった風な事を言っておりますが・・・。
日本では、ブーたれてばかりでした(爆)

さて・・・・。

再び、オペラ座近くのキャフェに通う毎日です。
大通りから一本入っているので、それもL字の内側を向いた作りなので、静かです。
去年、暮らしていた1晩800円のホテルは、近かったので毎日歩いて通いましたが、
借りたアパートからは、メトロ通勤です。
とは言っても、パリは小さいし、「カルトオランジュ」(オレンジカード)と言う、
メトロ全線利用可能な無記名の定期券(切符と同じ大きさ)が、とても安く買えるので
肉体的にも、金銭的にも楽々です。

8ケ月?10ヶ月ぶりに行って、みんながビックリしたこと。
それは、僕がカーリーヘアーだったこと。(爆)

特に店主は、男気の強いバスクの方です。

そうそう、バスク人(フランス国内ですが、自尊心が強くバスク人と自ら言うそうです)の男性が集まって、喋っていると、日本の男達が大声で喋っているように感じます。
髪も、目も比較的に黒い感じで、言葉のイントネーションがフランス人と違うのです。

そんなもんで、なんて言うか、男が髪を伸ばしてたり、パーマかけたり、きっとピアスしたりも、嫌いなんだろうなぁって思います。

長くなってパーマをかけた髪の毛を後ろで縛って、野球帽をかぶって・・・・・。
仕事をしはじめたら、「吹っ飛ばしてやる」ってな事を言われましたから。(爆)

もう、去年からのお付き合いで、気心が知れているので、彼も遠慮なく言ったのでしょう。

僕は、店の酒も飲まないし(爆)仕事は、真面目にするし、マダムと、シェフの信頼も
厚かったので、オーナーに何か言われても気にしませんでした。

彼の口癖は、、「スピード」と「ダイナミック」でした。
それでこんな事を言ってました。

「食器洗浄機を停めるな。ずっと回転させろ。」って・・・・。

何を言っているのかというと、洗うべき皿を、さっさとラックに並べて洗えよ。
と言うことなんですね。並べる時間は、限りなくゼロにしろと言うことです。

この洗い物は、パートのおばちゃまが、定番の冷前菜(サラダ、クリュディテ、ゆで卵、ソーセージとジャガイモ、ニシンのオイル付け、等々)を盛り付けながら、
やってくれるのです。

思い切りふてくされてました。(笑)

僕は、去年と違って、パーマをけた長い髪。彼の嫌いな野球帽。・・・・。
何か言いたげなのは、解ります。

でも、NY帰りは、スピードとダイナミックはお手の物でした。(爆)
自分でも、思ったのですが、行動がかなり早くなっていました。

注文を受ける時の最初の言葉でもう、準備して作り始め、出している。

ある時、オーナー自ら注文を持ってきました。
注文表を僕の目の前に出して、何も言わずに。。。
そして、横にいるシェフの小川さんと、明日のメニューについて、
なにやら喋ってました。

その間に、僕は、電光石火の如く作って、丁度キッチンに入ってきたギャルソンに
「あいよ」って料理を渡してしまったのです。
注文用紙にはテーブルナンバーがふってありますから。

シェフとオーナーの短い話しが終わりかけた頃、
「川名君 あれ、料理は?」って小川さん。

僕が、「もう行きましたぁ」って言ったら、二人揃って、「早すぎる」・・・・。

その後、彼は、野球帽と髪の毛をチェックしなくなりました。

NY、パリと暮らして思ったのですが、アメリカ人も、フランス人も
細かいところに気がつく人は、日本人より気がつきます。
口うるさい人も多いです。(僕の知っている範囲ですが)

バスに乗って、お年寄りが来ると、(外人の)僕に向かって席を譲れと他に空席が
あるにも関わらず、普通の早さのフランス語で言うくらいですから。
(パリもNYも日本と違って、外人、異邦人と言う感覚がないのだと思います)

でも、彼が価値とする部分を見せると、一切を認めるてくれるのです。
まぁ、僕が勝手にそう思うのかも知れませんが、とにかく楽なんです。
のびのびと生きやすい。

出来るものなら、このままここで暮らせたらなとも思うのです。
母からの連絡が無ければ、友人から帰ってこないかコールがなければ・・。

観光ビザで仕事している、一時の気楽さでしょう。
身の危険はあるし、修行なんて言葉が出ると、悲壮感や、大変さを感じてもらえるのですが、ハッキリ言って無責任な生活です。

いつもその二人の僕が出っ張ったり引っ込んだり。
そんな最中、一人の女性が、小川さんの元を尋ねてきました。

僕は、昼のサービスも終わり、(ここは、ランチだけです)明日への仕込みと掃除を追え、着替える為地下室へ行っていた時です。

鼻歌を歌いながら、階段をポンポンと上がって、真正面の窓際のテーブルでくつろいで
いる小川さんに、挨拶・・・。

黒い小さめのトランクを一つ持った女性と話しをしてました。

「川名君、ちょっとちょっと・・・」

「あのさ、友人で僕の前にここのシェフをやっていた鈴木君の紹介なんだけれど・・・」
「彼女、ソムリエなんだ。パリで少し働くので住むところを頼まれてるんだよね」
「えっと、名前は・・・・・」
初めて、飯坂と会った瞬間です。
「へぇ~。ソムリエ。女性で一人で仏蘭西に来られるんだぁ」

すごくビックリしました。
細身でスーツみたいので来ていて、OLみたいだったし。
確かに、その頃少しずつですが、女性料理人が出始めていましたが、
フランスで、女性の同業者と会ったのは、初めてでした。

で、小川さんが、これからどうしたいのかとか、住むところの話しなんかしているのです。

それで、僕に何を言ったかというと、
「川名君、彼女のアパート探してくれないか?」

(へぇっ? お、おりゃ違法滞在ですぇ~。)

とはいうものの、職人の世界の上下関係は絶対です。
何とか、探しましょう。・・・・
が、ですよ。もう夕方。すぐにはどうしようもないですし、明日も仕事があります。

とりあえず、2,3日は近所のホテルにでも泊まってもらいましょう。
と、大通りに出てすぐのホテルへ部屋をとってもらいました。

パリは、泊まるところは本当に便利です。

キャフェも多いけれど、花屋も、多いけれど、パン屋も多いけれど、
そうそうお菓子屋も、レストランも。。。(笑)ホテルも多いです。

ホテルが多いって言っても、東京の変なホテル街みたいじゃ無いですよぉ。
それから、帝国とか大倉とか・・・
とにかく大きなビルではないわけで・・。看板ないし。
全部同じ建物でつながった隣がホテル。なんて感じです。
扉もりあんと大して変わりなく、普通のアパルトマンの扉です。

勿論高級扉の、クルクル回る回転扉とか、重装備のホテル(リッツ、クリヨン、
ブリストル、プラザアテネ・・・・)も沢山ありますけれど。

                                                               かわなよしのり

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再びパリ VOL.16

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

懐かしいパリへ帰って来ちゃいました。
回りがとっても柔らかく見えて、優しく見えて・・・・。

「うん、僕はパリの方がやっぱ好きかも知れない。」

しばらく友人のところでお世話になって、まずは、NYに行く前に仕事をしていた小川さんを尋ね、今年もここで仕事をさせてほしいという御願いをしました。

既に去年の経験がありますから、すぐにOKの返事を頂き、これで、この夏の生活費の心配はなくなったのです。
次にに住むところを探し始めました。
パリのジュンク堂書店には、色々な情報が集まります。

そこで日本人のアパートの夏期休暇貸しがありました。
日本に帰国している間、家賃を負担して利用できるわけです。

僕は、なんて言っても観光客扱いですから、アパートを借りられません。
誰か別の人が借りているものを又借りしなくてはいけないわけです。

NYでまともな人間生活(笑)を送ってきたので、もうあの800円の
ホテル住まいは、ちょっと卒業したかったです。

せめてシャワーとキッチンがほしい。

電話してみたら、日本人女性でした。(ビックリ)

「女性の部屋なら、ちょっと無理だろうな?」
そう思ってたら、やはり既に予約済み。

でも、しばらく喋っていたら、ルームメイトのフランス人も帰省するので
よかったら彼の部屋を借りられるか聞いてくれるとのこと。

ふーん、フランス人と同棲してる日本人の女の子かぁ・・・・。
多いんだよね、このパターン。

いいなぁ。きっと日本から仕送りしてもらって、パリ生活をエンジョイね。
軟派なフランス男と。

・・・・「どこがいいんじゃい!」(おっさん言葉になっている(笑))

なんて言うかひがみ根性丸出しです。

やっぱり職人って、ひがむ人多いですよ。
女性と知り合う機会も少ないし、週末仕事が多いし、朝から深夜まで拘束されるでしょう。
給料安くて・・・・。先輩から嫌がらせを受けるし。
ほんといじめの典型的な世界だから。

確かに、それで残れる人じゃないと、それくらい料理が好きじゃないと、
生きて行かれないという、教えでもあったのかも知れないのですが・・・。

「いいことなぁ~い。」

ただ、僕は多摩美時代が多少あったし、今で言うフリーター(土建屋修行でしたが)期間があり、その時、高校時代のガールフレンドと雨の日に会っていたから(笑)まだ、よかったかも。

「よしくんと会うときはいつも雨なんだね・・・」

「おりゃ、土建屋だからな。晴れたら稼がなきゃ(笑)」

たわいもない笑い話・・・・。
雨の日にブルーのランクルにのって、海や山・・・。
「ねえ、軽井沢まで行かれるかな?」「うん大丈夫。行けるよ」
でも僕は、そんな日の終わりを感じられなかった。

閑話休題・・・・。

約束の日に電話したら部屋のことOKが出ました。
やった、これで秋まで仕事と住むところが確保できた。

で、気になったのは、彼女の部屋を借りる人・・・。
勿論女性でしょう?
聞いてみたら、何と男。それも料理人。(がっかりぃ(爆))

当時パリでウロウロしている日本人は、どっかしらでつながっているから、
名前を聞いてみたのです。

「井上さんて仰る方なのですが・・・」

以前、ベルギーに旅行に行ったとき声をかけられたとのこと。

「それってナンパでしょう?」って聞いたら、笑ってごまかされてしまいました。

「でも、僕その井上って知ってるよ」

電話の向こうで、「キャー!ウソー」ってかなりビックリしてるのです。

「だって、おりゃ違法滞在の料理人だよ・・・・」

ま、とりあえずミッシェル(同居人というか大家さんである)に会いに来てほしいと言われたので、彼女のアパルトマンまで行ってみました。

行ってみたらきちんと部屋が分かれていて、彼女と彼はそんな関係では全くなく。

入口のドアをあけると真正面に窓。そこはキッチンで小さいけれども、とても明るくて気持ちがいい。

左側のドアの向こうが彼女の部屋。
右側の突き当たりが、トイレとシャワー。
その左のドアをあけると、ミッシェルの部屋。

両方の部屋を見せてもらったけれど、やはり男性と女性の部屋は歴然と差がありました。ミッシェルという名前の響きから、綺麗な部屋を想像したのが間違え。
僕は殺伐とした、ちょっとほこりっぽい小さな部屋をながめてました。(笑)

喜びは半減ですが、それでも安心して生活できる場所が決まった事は嬉しい。

床にシングルのベットマット。それからちゃぶ台?。
彼は椅子の生活でなく、床の生活者らしい。まっ僕も嫌いじゃないから・・・。

基本的にパリのアパルトマンは、天井が高いのに、床にいるものだからもっと高く感じる。
これって、贅沢な気持ちにさせてくれます。
ベットの上にごろりと寝ころび天井をながめてました。
白い天井から目をゆっくりと右に落としていく。パリの古いアパルトマンにありがちな縦長の観音開き窓。ここは4階で向かいには公園がある。
この街に似合わない青い空と、白い雲。

僕は、3年前に戻ってシャルル・ド・ゴールでトランクをひいている。
つい半日前まで、友達や、家族に囲まれて、10の夢と、1つの不安しかなかったのに、今は独りぼっちで、10の不安と1つの夢をかかえて歩いている。早朝でまだ人影も少ない。何処へ行けばいいのだろう?

そして、初めての仕事場。星付きレストランの日々。2軒のキャフェ。NYの生活。とても3年と思えない。

うんと年をとったような気もするけれど・・。

ここの契約が終わる秋。
そろそろ日本へ帰ろうか?

唯一親友になった料理人は既に日本に帰ってしまった。
こっちで知り合った、エールフランスのフライトアテンダントと
結局結婚することになり、式は11月だから帰ってこないか?って

一応やりたいことは、やってしまったかな?
肩書きに全く興味がないから、有名レストランで働く気もないし・・
これ以上パリにいて、日本に帰れなくなったり、日本で仕事できなくなったり、そんな風になってしまうのも怖い気持ちがする。

僕がここで生きている間に、両親は年をとりました。

一昨年、父は定年退職したし。
叔母は乳ガンの手術をして、みんな大心配だったとのこと。

みんなが帰りを待ってるのだから、僕の生活するところは日本なんだ。

「さぁ、帰ろう・・・・。」
「きたねこの時が・・・。」
「知ってたよ。」

「だから、毎日が愛しかったのさ。」
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「愛される料理」

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笑い話

◇食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。

  今日は、 斎籐一人さんのご著書から引用です。

  「そうだなぁ」と思う面と、

  「僕は、違うんだなぁ」と思う面があります。

  以前、私が講演したときの事なんですけど。
  講演の前に、「まるかん」の人たちが、会場の人たちに、
  「携帯の電源を切って下さい」って御願いしたんです。

  でも、講演中に、携帯の着メロが鳴っちゃったんです。
  でも、私は何とも思わなくて、

  「いやぁ~、この辺で音楽が欲しいと思っていたところだから、
   すごく助かりますよ」

  なんて言ったら、会場が大爆笑で。
  それで、私は気にしていなかったから、その事を忘れていたんです。

  ところが、その後で、講演会の感想文が私のところに来て、それを
  読ませてもらったら、

  「もし、自分の携帯が鳴っちゃったら、多分、私はハラハラしたと

   思います。                                                                                                                                                                                         

  でも、一人さんがジョークにしてくれたので、

  あの人は凄く助かったと思います」

  って書いてあったんです。

  この感想文を書いた人、凄いなぁと思いますよ。
  自分が真剣に講演を聴きに来て、着メロが鳴っちゃった。
  その時、大抵は、

  「うるさいなぁ。チャンと電源切るのが、マナーでしょう!」

  とか、言いたくなるものなのです。
  でも、この人は、着メロを鳴らしてしまった人の気持ちを思いやって、
  なおかつ、私のことを立ててくれている。

  この人「大人」です。

                       =斎藤一人=
   「変な人が書いた人生が100倍楽しく笑える話」

  メルマガにのせるには、引用が長すぎるし・・・。

  そう思い、引用部分は、こちらに掲載しました。

  僕の違和感は、メルマガ及びバックナンバー

  → http://ameblo.jp/riant/

  をご覧頂ければ幸いです。

  「愛される料理」

  料理教室&Bistrot RIANT-りあん-

                    川名克典 

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さよならNY VOL.15

◇食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。

クリスマスも終わり、年が明けた「LaCite」は、なんだか間延びしたよう。
特に僕は、あの日で燃え尽きてたの。(笑)

いくらお客さんが入っても、暇としか思わないし。
自分も含めてみんなの動きが、ゆっくり見えるのは何故?

その頃、レストランサービスのバイトに、中国系の女の子が入ってきて、
その子が厨房に来ると、目が合うのです(笑)

結構、頻繁にクロスする。(ドキッ)
料理に夢中になって、長いこと忘れていたもの。忘れようとしていたもの・・・・。
でも、言葉も不自由だし、ずっとココにいるわけではないし、なんて言ったって
労働許可証のない人間ですから、透明人間みたいなもの。

悪い奴は、これを利用して悪さをするのでしょうが、そんな事出来る人間じゃないです。
メキシコ人のマリーオ?ホセ?違うな、忘れてしまった。が僕に話をしに来ました、

「彼女はYOSHIのこと好きだよ」・・・・。
「う、うん。何となく感じてるけれど」・・・。僕は奥手なんですぅ(笑)

しばらくしたら彼女は来なくなって、やめてしまったらしい。
なんだか、寂しいような、ホッしたような・・・・。

NYの女の子は、とても積極的です。
僕はよく、休日にセントラルパークでジョギングしていたのですが、
何度か声をかけられました。

ハーイ。元気?私は○×。あなたは日本人でしょう?
何をしにきたの?・・・・・・。こんな具合にね。

英語喋れたら良かったのにな。何度か思いました。(日本の英語教育って何?)
その当時は、フランス語なら、ちょっぴり会話できたので、
頭の中に先にフランス語がでるのです。

面倒ですね。語学が出来ないのは。フランス語から日本語へもどして、英語を探す。
まぁ、あの調子で、女の子たちに声をかけられ、きちんと会話が出来ていたら、
僕は日本に帰ってこなかったかもしれません(キッパリ)(爆)

だんだん春に向かって、温かくなります。
1日1日、大家さんとの賃貸契約が終わりに近づきます。
よく歩きました。87丁目からダウンタウンまで、SOHOまで、トライベッカへ
リトルイタリー、そして逆に125丁目まで、お昼間にね。

そうそう、一度、佐藤君と深夜に地下鉄に乗って帰るとき、特急に乗ったのです。
間違えて。 あれ、82丁目通り過ぎたよ。止まらない。ウソ~。125丁目だ。
二人ピッタリと身体を寄せ合って、監視カメラの回る白線内で緊張してました。
たった一人だけ、白人がいて、でも、彼がいてくれて本当に心強かったです。

もう一つ、彼が早番の時、深夜僕一人で帰りました。
彼は僕より早番が多かったです。僕は完全に夕方から深夜までの契約です。
慣れとは恐ろしいものです。

一人だとバスに乗って帰ります。
NYのど真ん中、ロックフェラーセンターから125丁目まで、ブロードウエイを
北上するバスなのですが・・・。
この時間にバスに乗っているのは、年配の黒人だけなのです。
まあ、いわゆる真面目な労働者たちばかりです。お疲れ気味で皆さん肩を落としてます。

僕も、お疲れ気味です。
これが失敗。

なんと寝てしまったのです。慣れとは恐ろしいものです。それも僕一人です。

気が付いたら、なんだか暗い通りを北上しています。
きょろきょろしますが暗すぎてどこか、全くわかりません。何たって生まれてはじめて通る道なのですから、わからなくて当然です。
ただ、まだ走っていると言うことは、125丁目には着いてないのです。

基本的にバスの運転手は喋りません。
聞きたくても、聞けないし、頭の中は半分パニック。
自分としてはかなり早い演算処理をしたと思います。

チャイムを鳴らす綱を引き(ボタンじゃなくてロープが前から後ろまで引いてある)
そうすると間もなく止まりました。

おりるのは僕だけです。のっているのは数名のみ。外は真っ暗。
「やばい」
これがNYで最大の危険状態だったのは、目に見えてます。
バス停をおりて、バスが去りました。
「やっぱ、やばい」・・・本当に一人です。

ふと斜め前の高層アパートの影に何かが動いてます。
すごいですね、アドレナリンが猫のように身体を駆けめぐっていたと思います。
身体が、フワーってなにかを感じるのです。
空気の動きみたいなの。真っ暗で目では見えないのです。

しばらく目をこらしていたら、見えてきました。
小さな白いものが動くのです。それも一つでなく。

「歯」

ニヤニヤ笑っている。黒人たちが黒い革ジャンきて、話しをしているのです。
どうします?
別に悪い人とは限らないのですが、この状況です。ミッドタウンではありません。
バス停の数字は。111丁目。
僕のアパートは87丁目で、100丁目より上には行かない方が良いと
言われていたのにです。

まっすぐ南に向かって走り始めました。
何も見ず、ただ南だけをまっすぐ見て。
普段スポーツジムに行っていて良かったぁ。

走りに走って、いつしか見覚えのある通り。
GAPが見えた。ここまで来たら、進路を西に変えても大丈夫。
左に曲がってセントラルパークの手前まで、
アパートについた。クタクタ・・。

ある日、体調を崩したのです。一人アパートで寝てました。

パリの生活でもこんな事はあったのですが、
NYは、毎日のテンションが高かったのか、とにかく時間が早いからか、
一人だけ世界に取り残された様な気がするのです。

「寂しい」・・・その時、思いました。

NYは癒される所でなく、目的を持ちただひたすら走るところ。
走るのをやめたなら、どこかへ帰る所。
NYは仕事に行くところで、リラックスしにいってもその真価は半分もわからないかも
しれない。
そんな風にベットの中で思ってました。
別に日本が懐かしいとか思わなかったです。
でも、パリのあの安ホテルが懐かしいなんて・・・。

セーヌ河岸。サン・ルイ島。サンジェルマン・デ・プレ。レ・アル。オデオン
サン・ミッシェル。花屋。美容室。ケンゾー。ポンヌフ。オペラ座。
僕の脳裏に焼き付いたパリのスナップショットが紙芝居の様に切り替わるのです。
やっぱり美しい街、巴里。

そろそろ、NYはタイムアウト。
オレンジ色のシルクジャケットも買った。ナイキのスニーカーも手に入れた。
リーバイスも3本、そして、何カ国もの人間に、僕の祖母の味を食べさせた。

今祖母は、ほぼ寝たきりの96才。でも、知らぬ間に彼女の味は、世界の人々に食べて
もらえた訳。

佐藤君は、ナイアガラ観光して、パリに行きたいという。
僕は・・・・。まっすぐ「帰ろう」。

彼は、先にNYを旅立ちました。
僕は、大家さんが帰ってこられたので、あと1日ホテル住まい。
かなと思ったら、ブラジル人のセルジョが泊まりに来いと言う。

ホテルといっても僕が探すのは、3000円以下だから、
あまり安全ではない訳で、これにはとても嬉しかった。
一晩、英語とフランス語と日本語のチャンポンでいつしか朝日が昇ってきた。

JFKへ一人で向かい、搭乗手続きを済ませる。この位の英語は楽になっていたので、
「世界中のレストランで仕事もいいかもぉ」(笑)なぁんて、お気軽にふと思ってたの。
飛行機が滑走路を走りはじめ、グンとショックがきて機体が持ち上がった瞬間。

ん?何故だろう・・・・。

斜めのまま小さくなっていく「あの街」を見ていたらに、急に涙がこぼれ落ちた。
そして次の瞬間、僕の視界に、にじんでいるけれど着陸態勢に入ったボーイング。

「今日も、夢を追いかけて誰かこの街にやってくる。」
Yoshinori.K

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愛される料理のNY VOL.14

◇食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。

「土にまみれたニンジンを通して宇宙の仕組みが、全て感じ取れたのです。そうだ、全てが回っているんだ」=赤峰勝人=「ニンジンから宇宙へ」

NYのフレンチレストラン「La Cite」での仕事が始まります。
マンハッタン、ロックフェラーセンターのど真ん中、ライフ&タイム社の大きな看板が目の前にある超高層ビルの1Fにその店はありました。
席数は、200~300。RestaurantとCafeの融合店舗です。

キッチンは・・・・・・・。ビックリしました。
キャッチボールができるのです。(あ、はっ!)

パティシエは、別にあって、前菜、グリエ、魚、煮込み、ソース・・・・と横一列に並ぶのです。だから10mくらい?

それぞれの部門に、コックが2名ずつ(暇な時は一人とか、隣も掛け持ちとか)それぞれに、専用の調理台冷蔵庫(コールドテーブルと言うもの。テーブルの大きさの冷蔵庫で天板が料理台になります)専用のコンロ、専用のオーブン、そして必要な場所には、蒸し器、フライヤー・・・・。

キッチンの真ん中には、そうだな3畳くらいの部屋、これがつけ合わせとか小物用の冷蔵庫。
その部屋を取り囲むように、テーブルがコの字を描いて部屋の外壁から飛び出ている。そのテーブルの上には、あたかも調理器具のショールームよろしくありとあらゆる機械が。

そして、更に野菜庫、肉庫、魚庫と言うように冷蔵庫部屋が別にあるのです。ホテルでなく、街のただ1軒のレストランです。「あっ・・・・唖然。呆然」

料理人は2交替。午前(8:00~16:00)の部、午後(16:00~24:00)の部
それが終わると、若いスペイン系の子達が夜通し掃除をするのです。
そう、料理人は料理を作るだけ。皿どころか鍋すら洗いません。

ある時僕が、自分で使うボールを洗ってたら、chefに怒られました。
「YOSHI、洗い場に洗わせろ」・・・・・・・・

日本人は、フランスでもそうですが、やっぱり魚部門に自然と配属されます。
日本から着たばかりの佐藤君は、若かったのとフランス経験がなかったせいか前菜に配属されました。

いやぁ。とにかくボリュームがすごい。
肉の厚さったら、「これ食べられるの?」「3人前でしょう?」
肉だけじゃないのです。魚も。
毎日キングサーモンのヴァプール(蒸し煮)が山ほどでるのですが・・・。
一人200g+。
日本のレストランの2人前を束ねて竹串で止めて丸くして蒸すのです。

なんだか知らないけれど、ヘルシー志向で、これを蒸しただけの注文が
多いんですね。
ソース?勿論いろいろできるのですが、何もつけるなって注文が多いのです。

日本人は魚を食べるけれど、こんな食べ方しないし、飽きるでしょう?
もしかして、ケチャップやマスタードで食べてるのかな?(笑)

アイダホポテトもすごかったです。
作業靴みたいに大きいのですから。
縦長に1㎝の厚みでスライスすると、何というか楕円の陶器のまな板皿
みたいです。(爆)

何と言っても素材が全て大きいので、火のはいる時間がかかるのです。
それでもオーブンはいつも、灼熱。
温度を下げようものなら、短時間で火が入らないと言ってブーイングものです。
だから、魚をオーブントレイに乗せて、中に入れると、あれっ、下が焦げてるぅ・・・。

そこで、あのまな板皿(笑)を沢山作っておき、魚の下にかませてオーブンに入れました。

また、おもしろいのが、「ばかでかい」チップス。
ただでさえでかいアイダホポテトをスライスして4、5枚少しずつ重ねて張り付け大きなお皿ぐらいのチップスを作るのです。(笑)

これに、僕ははまってしまって、今までにだれも作ったことのない様な、最高に綺麗な円盤状のチップスを沢山、沢山作りました。
だから、時々マネージャーが「YOSHI~。御願いもう作らないで」って(爆)

すぐ近くがカーネギーホール、まぁ、回りはミュージカルだらけですから
ヒットしている舞台がある日の19時前後は閑散としてます。
でも、21時を過ぎると、舞台を見終わった人々で、てんやわんやの大騒ぎ。

ほんとにお祭りの様な毎日でした。
料理は、スピード第一。でも、冷凍食品や加工品が一切ないのです。
これは、感心しました。
だしは勿論のこと、ソーセージ、ハム、スモークサーモン、パテ、テリーヌ・・・・・。全部作ってましたよ。

日本人なら、しかめっ面して作るものも、ロックビートで作ってるのです。

彼らは本当に野球帽が大好き。
お気に入りのチームのもあれば(NYヤンキースだけですが)店の帽子もある。

僕は日本に帰ったら、キッチンで野球帽をかぶろうと思いました。
(最近ザラにいますよね?でも1990年初頭日本ではなかったです)

パティシエの女の子達は、ポニーテールにして、帽子の後ろの穴
(大きさを調節するバンドのところ)から出していて、なかなかキュートでした。

僕は当時、髪の毛が肩まであって、ポニーテールにしていたのです。(ええっ)
いつも適当に自分で切ってましたが、佐藤君がなかなかお洒落で、ある時日本人の美容師さんがいる美容室を発見してきて、僕は、彼女にカーリーにしてもらったのです。(えええっ×3)

高校生の頃ちょっとやっていて。でも料理人はそんなの出来ないでしょう。ところが、この街は何でもOKなんです。
勿論調理中は帽子かぶります。またはビッチリとゴムでひっつります。
つい、おもしろくなってかけてしまったのです。

その頃、その店のオーナーが持っているスポーツジムに、月1万円ほどで通わせてもらいました。
タイムズスクエアの時計の横にあるホテルの7階?(かな?)
小さいけれどプールもマシンもサウナも揃っていて、毎日通いました。

毎日行くものですから、言葉が今一でもスタッフと友達になり、
そのスタッフの一人。美人ディレクターに
「私カーリー大好きと頬ずりされてしまい、髪をかき上げられたのです」(あっ、汗)

僕の身体は、この当時最高に元気だったと思います。
やはり、運動はできるなら毎日すべきです。(最近全くしてない。ダメなchefです)

ある日、店は超満席になりました。
空いても空いても、お客さんが入ってくる。
何でもすごく有名な舞台が、終わったから、この店の回りにお客さんがうじょうじょいるとのこと。(キャッツかオペラ座の怪人か?)

すごいオーダーの数です。
僕は、かなり手が早かったので殆ど一人でこなしてましたが、これはきつかった。
勿論、サブが横にいつの間にかいましたが、帆立のムニエルをカリっと焼けない。
やってくれるのは嬉しいけれど、僕の職人根性が黙ってないのです。
コンロには空きスペースがないので、灼熱のオーブンへフライパンを突っ込み
加熱して、半煮えになった帆立を焼き上げました。

こんな風に真剣に作るのですから、ギャルソン達は、注目します。
アメリカ人相手に、日本人の僕が怒鳴ってるのです。
ひとつ間違えたら、総スカンを食らう状況でしたが、でてくる料理をみると納得してくれるのです。

彼らは、完全にチップで生きているのです。
料理の出来は、彼らの日当に一気に響くのです。
YOSHIの作る魚料理は、間違えがない。失敗しない。客受けがよい。
僕の作る手元に、10名以上いるギャルソンの目が集中していたのでしょう。

オーダーが、ローストや煮込みから魚に一斉集中です。
こんな激しいオーダーは、後にも先にもこの時だけでした。
コールドテーブルの向こう側。
ふと見ると、ペリエの小瓶が1つ、また1つ、まるでボーリングのピンのように並び始めました。

料理人は、バドワイザーを自由に飲めるのですが、僕が酒を飲まない
(飲めないが正しい)(笑)ことを、いつの間にかみんなしっていて
カウンターから「YOSHIに持っていく」と言って持ってきてたのです。

汗でぐちゃぐちゃになっているときに、胸が熱くなってきました。
普段、滅多にしゃべることのないギャルソン達ですよ。
自分のチップの為とはいえ、それよりもふえていくペリエに、感激したのです。

「死にものぐるいは、誰にでも分かる。」そんな言葉が頭をかすめたのです。

最後のオーダーを出し終えた後、僕は意識がもうろうとしてました。
身体は小刻みに震え、マラソンした後の様な感じだったのでしょう。
友人のブラジル人が、僕の震えをみてビックリしてました。
ジムに通っていたからこなせたオーダー数だと今でも思います。
そうでなければ、途中で息が上がり、集中力がとぎれ失敗料理や大けがをしていたと思います。
                                                          Yoshinori.K

料理教室&Bistrot代官山RIANT-りあん-

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