« 聞かせてよ愛の言葉を | トップページ | 帰る日 VOL.26 »

走馬燈 VOL.25

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

飯坂が日本へ帰った頃、秋の気配が巴里を包み始めました。
2シーズンお世話になった、小川さんがシェフを勤めるキャフェも、料理人のバカンスが全て終わったので、僕のポジションはなくなりました。

自分の味覚を試すことも、星つきレストランの仕事をすることも、日本人の全くいない環境で暮らすことも・・・。

普通に、巴里のバゲットを食べ、チーズを喰らい、ワインは・・・残念(笑)
映画も観光も、そこそこ楽しんだ方です。
やりたいことは、一応やってみました。
短かったけれど飯坂とあちこち歩き回り、思いもよらぬワインツアーも体験しました。

そういえば、前回書き忘れましたが、サン・テミリオンにも、足をのばしました。
ここは、本当に綺麗な村です。
こんなに綺麗な村は見たことがなかったです。(笑)
見たことがないって言うけれども、他に何処を知っているかって?

ランス、アルザス、コルマー、ディジョン、マコン、ボージョレ、リヨン、ヴァランス、ヴィエンヌ、シャモニー、ニース、カルカッソンヌ、ラギオール、ナント、カーン、シェルブール、ヴェルサイユ、パリ・・・・ぼちぼち一周です。

実はフランス料理修行を始める2年前。
先輩と後輩と3人でグルメツアーをしました。
50万円と往復チケット。レンタカーで毎日三ツ星を食べ歩きました。
その時に、上に書いた街のグルメ街道を走ったのです。10日間フランス食べ歩きです。
レンタカーにスーツをつめて、例えば林の中で着替えて三ツ星へゆくのです。
または、近くの安宿に宿泊し、スーツに着替え歩いて向かったのです。(笑)

閑話休題
もうすこし、巴里で暮らすことも、出来たのですが・・・・。
友人の結婚式と、母からの手紙。
そして、プロダクトデザイナーの女友達が帰国する事を決めたので、
じゃあ一緒に帰ろうかとなりました。「1991年10月17日」

巴里に来たのは、「1988年3月4日」でした。
1988年は、二つ星レストランで働きました。

1989年は、フランス人だらけの郊外のcafeでシェフをやりました。
その年の冬から1990年の初夏まで、7区のショコラチエで働きました。
そして、夏から晩秋まで、小川さんのキャフェで働きました。

また、その冬から翌年1991年の初夏まで、マンハッタンのフレンチレストランで働きました。
初夏から晩秋まで、また巴里にもどり小川さんのキャフェで働きました。

最初の二つ星は、殆ど喋ることがままならぬからこそ、身体中でフランス人とぶつかりました。よく笑いました。精一杯喋ってみました。
真剣に怒りました。言葉の幼稚さを笑ったフランス人をどつきました。(笑)

そして、その店を辞める日に、大泣きしました。(爆)

この店の入り口付近をウロウロした日。
黄色いチューリップの花束を右手に抱え、片言にもならぬフランス語で、今、僕の横にいるシェフと喋ったあの時間。
そして、働けることが知らされたあの電話。
生まれて初めて入るフランス人の厨房とそこで作られる料理。
オーダーや仕込み、ソムリエとギャルソンの顔が次々と・・・。

「走馬燈のように」という表現はこのことなのだったのかな。

その店の次に働いたフランス人労働者の集まるキャフェでの一人仕事は、飛ばしすぎて、途中から自らの箱に入ってしまったのでした。
山ほど積まれた皿を洗いながら、こんな労働をしに来たのでは断じてない。と自分に叫んだ瞬間。

仕事を探してあちこちの店に飛び込み、断られ続けた泣きたくなるような日々。そんな僕に声を変えてくれたパティシエの拓さん。

テンパリングもろくに知らない僕にチョコレートの魅力を見せてくれた、
ミッシェル・ショーダン氏。

最初のふた月は、やることなすこと注意されてばかりだったのに、後半は僕を信頼して下さりショコラチエにならないか?なんて・・・・(笑)

ミッシェル・ショーダン・ジャポンの設立と、彼との別れ。
僕は彼が雇った最後の日本人スタジエと言うことだったのです。

さて、また仕事を探さなくては・・・・。
そんな時に訪ねた小川さんの店で、ずっとお世話になるとは・・・。

毎日のように小川さんを訪ねてくる、威勢のいい料理人達。
巴里に来た多くの日本人料理人は、ここに挨拶に来ていました。

「川名君、○○さん知ってる? じゃあ××君は?・・・。」

芸能人も知らないけれども、フランス料理業界の方のことも知らないのです。

そんな小川さんには、大変お世話になりました。
ご自宅へ招かれて、日本食晩餐会とか・・・。
「巴里じゃドライブなんかしたことないでしょう」と彼の車で環状線のドライブに誘って下さったり。

ささやかではありますが人間らしい生活を味わいました。
この時、少し見えたのです。幸せの正体が(笑)・・・・。

そして激震のマンハッタン(笑)
「エキサイティング」の一言でした。
とにかく動き回りました。
それはプライベートも、キッチンも。

巴里は一人の時のんびり散歩とか映画、読書だったのですが、NYは違いました。
セントラルパークのジョギングか、マンハッタンのビルの中にあるスポーツジムでプールと、マシンづけでした。僕は遅番なので、16:00出勤でしたから遅めに起きて朝食、洗濯、掃除、買い物、散歩をすませ、昼過ぎにジムへ入り2時間ほど汗を流してました。痩せていた僕も、僕の人生で最高の「マッチョ」になりました。(笑)

仕事も早くて大量だったです。
キャッチボールの出来る厨房なんですから(爆)
ここで、2時間で100皿以上の魚料理を作りました。
単純に1分間で一皿。

身体は頭になり、頭は身体になり・・・・。
無我夢中を越えてました。
そしてこんな時は神経が研ぎ済まされるので、オーダーミスが全く無かったのです。

次から次へと入るオーダーを全て把握しました。
オーダーが入るとき、調理するとき、仕上げて出すとき。
全てが機械のように淡々と動いていたのです。

ジムとセントラルパークで鍛えておいてよかったです。
そうじゃなければ僕は、途中で倒れたでしょう。

2時間の集中攻撃が終わったとき僕のコックコートは透けて肌にピッタリ張り付いてました。そして立ちつくした僕の身体は、酸欠のためかブルブルと小刻みに震えていたのです。
それを見たブラジル人のセルジョが、アメリカ人のマイクに言いました。

「マイク、YOSHIを見ろ。ほら身体が小刻みに震えている。あんなに一気にこなすとこんなになるんだな。よくやるよ。」といいながら、タオルで扇いでくれました。

12月1日から5月31日までの半年間の契約終了。
巴里へ帰る時が来ました。

僕がNYにいる間に、何度か友人を送りに行ったJFK空港へ僕は一人で向かいました。
半年前より、出来ないなりに度胸だけついた片言の英語で、搭乗手続きを済ませ・・・。

僕は、後部座席窓側のシートに何も考えずに座っていました。

ジェットエンジンの音が大きくなり機体は走り始めました。
飛行機が離陸する瞬間を、今でも鮮明に覚えてます。

前輪が地表を離れグイッと身体がシートに押しつけられ一気に空へ向かう。
その地球の重力に逆らう圧力を、不自然に感じながら小さな窓の外を見ると、斜めになった地上に今まさに着陸しようとする機体が一機目に入りました。

離陸しようとしている本機と着陸しようとしているあの機体には、どんな人が乗っていることだろう?

大きな夢を胸に秘めてこのNYにやってくる人々。
そして、夢を叶えてこのNYを離れる人々。
そして・・・・。
夢破れてこのNYを離れる人々。

僕の頬に、涙がスーッと落ちました。

何故?
それは、大切なものが僕の中から確実に去って行く。
あの着陸する機体に、その背中が見えたからなのです。

その瞬間、そこに向かって何かを叫んでいる僕の声が、聞こえたような気がしました。

「来週、巴里を飛び立つとき、何が見えるのだろう?」
日本へ帰ることを決めたあの日、そんなことを思いました。

                                          Yoshinori.K
メールマガジン「愛される料理」
発行システム :『まぐまぐ!』さん→ http://www.mag2.com/
発行者    :料理教室&BistrotRIANT-りあん-川名克典
URL      :http://homepage2.nifty.com/riant/
バックナンバー:http://ameblo.jp/riant/
日本語URL   :愛される料理.jp
chefの独り言 :http://riant.cocolog-nifty.com/blog/

|

« 聞かせてよ愛の言葉を | トップページ | 帰る日 VOL.26 »

料理人の休日」カテゴリの記事