退院、再入院そして りあん Vol.31

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

結局、長女の場合、この手術でほぼ完治の状態になったのです。
勿論、未来はわかりませんから・・・・・。
その時点で出来る最良の結果に終わったと言うことでした。

術後ふた月ほどの入院をしました。
主治医が驚くほどの回復力だったのです。
赤ちゃんというものは、ものすごい再生能力があるものです。
そこに、人間の英知、医学の力が・・・・・。
もしそのまま放置すれば、ゆくゆくは細胞が死んで行くだろうものを、そうでは無い方向へ向かうようにと、そのきっかけを与えたのです。

まだ、生後一月です。
当然、僕らの話しも理解していません。
何の知識もありません。

ただ、その身体は、「生きよう」「生きよう」として生まれてきたのです。
疑いを知らないその活動は、その体内の宇宙をより活性化させた事でしょう。

身体はみるみる回復し、退院の日を考えるようになりました。
前代未聞。主治医も驚きを隠せないのですが、全データがOKサインを出したのです。

夏に一度退院しました。
そう「一度」が結局付いたのですが・・・。

その訳は、退院して一月ほどでしょうか?
真夏でした。エアコンは控えていたのですが、汗疹を心配して扇風機を使ったのです。
そして、そのまま寝てしまったのです。
僕は仕事に行っていて知る由もなく・・・。

地下鉄を降りて家路を歩いていると、向こうの方から近所の歯科女医さんが駆け寄って
きました。
彼女は、飯坂が治療に通う間に友達となったのです。
そして僕は、彼女からつい今しがた、長女の様態が急変して飯坂が救急車に乗って病院
へ行ったことを知らされました。

それまで、のんびりと鞄をぶら下げて歩いていた僕は、その鞄を抱えると一目散に自宅へ向かって走り始めました。
まだ、携帯がない時代です。
とにかく、病院へ行かなくては・・・・・。

そのままの姿で表通りへ出るとタクシーを探しました・・・。
こんな時は、つかまらないものです。が、しばらく進行方向へ向かって走っていたときに運良く空の車が来ました。

乗り込むと、「三軒茶屋の国立小児病院」と告げました。
シートに深く座り込む余裕もなく、とにかく行く先だけを見つめてました。
渋滞に巻き込まれないでくれ・・。信号で止まらないでくれ・・・・。と祈るように。

病院に着くと料金を支払うのももどかしく、外科病棟へ走りました。
つい一月前までお世話になった病棟へ行くと、ベットがいっぱいだったので、
向かいの病棟へ緊急入院させたとのことでした。
挨拶もそこそこに、向かいへ走り込みました。

「今、救急車で運ばれた川名ですが・・・・。」

看護婦さん達の詰め所で、半ば叫ぶように言いました。
婦長さんらしき方が、説明に来て下さって・・・・・。

「大丈夫、大丈夫、今寝ているだけだから・・・」
「お母さんもきっと看病疲れでしょう、あちらのベットで寝ています」
と、顔を向けた先の病室には、飯坂が寝ていました。
長女は、別室で寝ているとのことでした。

へなへなと座りたくなるような心持ちでしたが、何とか座り込まずに、飯坂の近く
へ行くと、目を覚ましていました。

この夏の日から、クリスマスまで、長女は再入院になったのです。
とはいうものの、あくまでも用心のためと言うことだったので、本当に安心しました。

そして病院で離乳食が始まり・・・・。
飯坂は時間の許す限り、病院で長女と過ごしてました。
僕も、仕事が終わると職場からすぐに病院へ駆け付けました。

飲食店の料理長だったら、とても無理だったでしょう。
料理教室の仕事が僕のところへ来た理由が、この時解ったのです。

人生は不思議です。そして全てには、訳がありました。
さらにその全ては、奇跡に近いのです。

長女の成長が安定すればするほど、僕たちは退院後の生活を考えるようになりました。
ディスカッションではなく、何となく・・・・。

それは、夏の緊急入院を経験したことで余計強く心に刻まれていました。

長女と共に生きなくては・・・。

家に一人置いておくことも、ベビーシッターも、託児所も・・・・・。
全て出来ないことです。

かといって、僕一人の給与では心許なく・・・・。
また、あの女医さんの友人達が集まると、こんな話が出ました。
「いつ“シェ 川名”は開店するのぉ~」等と冗談とも本気ともとれる話が出て
いました。

その中で雑誌編集の仕事をしていた友人が、飯坂のキャリアを「もったいない」と
口癖の様に言ってました。

この言葉は、かなり僕の背中を押しました。
物事を行動に移すときのきっかけなど、たかが知れています。
その結果、自分の店を持とう。そうすれば子供を見ながら仕事が出来て、飯坂の仕事もある。全ての条件が揃う・・・・。かなり簡単に考えました。

ところが・・・・。(今思うと)(笑)
大切な売上についてはこれぽっちも考えていなかったのです。(笑)

場所は、国立小児病院から車で10分以内のところ・・・・。
初台、世田谷、下北沢、三軒茶屋、学芸大学、駒沢大学、池尻大橋、中目黒
世田谷線に乗って、見て歩きました。
東横線に乗って、代官山で降りて、中目黒から学大まで・・・。

実はこの時、今の「りあん」から数百メートルのところを歩き回ってました。
結局、知人に紹介された不動産屋さんの物件で、中目黒に決めました。
実際オープンしてからも、時々この近所の不動産屋さんを覗くことがありましたが、
飲食店として利用可能な一軒家は・・・・。ないも等しいです。
あったとしても、費用と場所を含めた条件が全くあいません。
この場所は・・・。奇跡なのです。

今だから、こんな風に言えるのですが・・・・。
全て奇跡に等しい事が、起こりました。
それは、フェラーリや3億円が当たったとか・・・。
そんな事よりもっと、もっと奇跡だったことに気が付くのです。

人生に計画は必要なのでしょうが・・・・。
この頃の僕たちは、例え計画していたとしても、全く意味をなさなかった様な日々です。
そして、無計画でも、まるで絵を描いた餅のように最良の路を歩んだのです。

「路はあるものではなく作るもの」という言葉がありますが・・・・・。

決して、僕らが作ったものではないです。
何かに導かれて・・・・・。

それを人は「神」と言うのかもしれませんが・・・・・。
僕らは、導かれたのです。

そして僕たちは、ここに「りあん」を開店しました。

この一連の奇跡的な事柄の根本は長女でした。
その長女の名前は「理衣(りい)」

りあんには幻の名前があります。(笑)
それは「理庵」~りあん~

奇跡を連れてきた長女の名前から一文字をもらったのです。
でも、お蕎麦屋さんか居酒屋さんに間違えられそうと言うことで、フランス語表記に
変えてしまいましたが・・・・。(笑)

その日から、今日までの一瞬のような14年間が始まったのです。

                                  Yoshinori.K

毎月末か翌月1週目に、「chefの独り言」は、ココログにUPします。
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1994年5月7日 Vol.30

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

1994年5月7日・・・。
ゴールデンウイークが終了し、ドクターが全員揃って・・・・。
とうとう、長女の手術の日となってしまいました。

生後ひと月足らずの乳児の開腹手術という事が、どんなに不安なことか・・・・。

右往左往するでもなく、自分で何かを変えられるでもなく・・・・。
ただ、黙ってなるままになるように・・・。

言葉も出なかったと言うのが本当のところなのでした。。
それから・・・・・。
余りよく覚えていないのです。

結局、心ここにあらずという状態で、何も言えなかったに過ぎません。
口を開いたとしても、家族に何といえばよいのか・・・。
不安がるわけでもなく、強がるわけでもなく・・・。

昨日までは、何かに向かっていました。
それは・・・。
「これは何かの間違いで、きっと健康体なはずだ。とわかり、退院出来るかもしれない。」と言う、科学的、医学的に何の根拠もない、「大丈夫」に向かっていたのです。

飯坂も同じ気持ちだったのでしょうか?聞いたことはありません。

でも、審判の日は来たのです。
間違いなく手術が始まるのです。

何も知らない長女は、前日まで思い切り身体を動かし、抱く者の心をまるで見透かす様な瞳で見つめてました。

すこしずつ、世の中が見えてきたのでしょう。
誰が抱いても、しっかりと見つめてました。
そしてその抱く者が語りかける口元から一時も目を離さないのです。

彼女は、よくあくびをしてました。
小さな手と足をのばして・・・・。
循環が悪いせいか、足先が冷たいと言うことで小さな靴下をはいているようでしたが、
それは、看護婦さんがカーゼをまいて作ったレッグウォーマーの様な感じでした。

そしてお腹が空くのでしょう、よく泣いていました。
看護婦さんがほ乳瓶の口先だけを貸してくれました。
「おしゃぶり」にするのです。

ミルクが入っていなくても、それを吸っているだけでおとなしいなんて・・・・。
知ってはいるものの、今目の前にして見るととても不思議でした。

ウトウトしていたのでちょっと悪戯をして取ってみたら・・。
いきなり泣き始めてビックリ・・・。(オット、ごめん)(爆)

検査入院のひと月間は、病気と言うよりも「神様が忘れ物をしてしまったんだ。」と思いながらの日々でしたが、それなりになんとも不思議な幸せを感じていた事も確かです。

手術の朝、飯坂がおむつを取り替えているのを横で見ていました。
タオルで作られたおくるみの紐を解き、おなかが見えました。
生まれてひと月たち、この世の空気にも慣れ、食事制限とはいえ必要量のミルクを飲み
のびのびと手足を動かし始めた長女の、傷もしわも無い出来立ての美しい肌が・・・。
そこにありました。

その時、これから大変な事が始まるのだと、急激に焦りと不安が押し寄せてきて、
今までの幸せがガラガラと壊れてゆく思いで胸が一杯になりました。

もうこの子が死ぬまで、この状態のお腹にはもどれないのか・・・・。
この美しい造形物を壊してしまわなくてはいけない・・・・。
それは、仕方がなかったにしろ、僕にある種の罪悪感を感じさせたのです。

長女のベットの名札の脇に、赤く塗られたボール紙に黒い文字で「手術です」と書かれた告知札がつるさげられました。
なんだか、だめ押しのようなお知らせに感じられました。
そして全くお門違いなのだけれども・・・・。
看護婦さんが意地悪をしているようにさえ思えたのです。
「解っているよ。いいよ、そんなお札をかけなくても・・・・・・。」

そんな気持ちがあふれましたが、それははっきりと僕を現実に引き戻したのです。
小さな絶望と大きな希望の「赤いお札」でした。
お腹の大きな切り傷と引き替えに、彼女は宇宙でたった一つの命を手に入れるのです。

そして手術が始まる時間になりました。
担当の看護婦さんが小さな長女をいつものように抱き上げ、小さなバスケットの寝台に
移し、タオルをかけ押し始めました。
僕と飯坂も後を付いて・・・。

そして、すぐに僕たちは離れる場所に到着しました。

手術室の横にある待合室でまんじりともしない気持ちのまま、僕は家族と共にいました。母が「座ったら」と声をかけてくれましたが、何とも落ち着かない僕は人のいない手術室の前の廊下を行ったり来たりしていました。

いまだかつて経験したことのない、全く止まってしまった様な、逆に激しい轟音をたてて流れている様な、不思議な時間を感じました。

手術時間は・・・・。
3時間だったのか、5時間だったのか・・・・。
ずいぶん長かったように思います。

今でも、不思議なのですが・・・・・・。

治らないとか、不可能だとか・・・・。
肝移植が必要だとか・・・・・。全く考えていなかったのです。
治らなかったらどうしようとか。その日、思ってもみなかったのです。
ちらりとも・・・。本当に。

かなりの確率で生肝体移植になるか、いつまで生きられるかとか・・・・。
そんな話になる、いわゆる「神様の忘れ物」です。

それなのに・・・・。
手術の当日僕は、全くそれを感じなかったのです。

そして、意図的に思うでも、刹那的に思うでもなく・・・。
何か、淡々とした、静かな気持ちだったのです。

とても静かな気持ち・・・・。

数時間後、手術は終了しました。

奇跡的に肝臓の中の胆管は作られており、その外で出来上がっていなかった管と十二指腸をつなげれば・・・。

手術は、無事成功に終わったのです。

とはいうものの、長女は数時間前の一見健康そうな様子とはうって変わり、何とも変わり果てた姿でベットの上に寝かされてました。

点滴の針が小さな細い足首に打たれ、その小さな鼻には酸素の管が通され・・・・。
その顔には・・・・。
それはまるでケーキを保存するための大きな円柱のプラスチックカバーの様な物が、かぶされていました。

そして、目を閉じてはいるものの、ゆがんだ苦しそうな顔で眠っていました。

生後ひと月の彼女にとって、この世に祝福されて登場してきたにしては、あまりにも
つらい仕打ちのように思われ、涙がこぼれそうになりました。

顔は、手術の影響でむくみ、体内の色々なバランスが壊れたせいか発疹がでて、
ぐったりと横たわっている姿は、痛ましくてやるせない気持ちにさせました。

それでも、この段階の手術で救われたのです。
もしも、肝臓の中の胆管が出来ていなければ・・・・。

長女の様な状況になる確率は、確か八万分の一程だと言われたように覚えてます。

僕は、身体中の力が抜け、ただ、ただ執刀医を初めとして・・・・。
この子を取りまく全ての事柄に、全ての巡り合わせに感謝するだけでした。

                                  Yoshinori.K

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神様の忘れ物 Vol.29

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

翌日から、僕は母乳を国立小児病院へ入院したまだ名前の無いわが子へ、運ぶ様になりました。
飯坂の帝王切開の傷口が癒えるまでの1週間ほどです・・・・。

当時の仕事も今と同じ、料理教室の講師及び料理長だったのです。
ただ、生徒さんが300名もいらしたので、当然スタッフも数名いました。
また、コースもA、B、Dと分かれており、僕の担当は月下旬のD(応用)でした。

2年前なら、僕はキッチンから離れられませんでしたが、既に若いスタッフが仕込みも準備もしてくれていたので、僕は講義時間内に仕事を集中して、合間には病院へ行かせてもらいました。

これは、14年たった今でも、心から感謝しております。
そして、僕がこの職場を、半ば導かれるように選んだ最大の理由が分かったのです。
「運命」はあります。でも、誰も知らないのです。

お昼のクラスが終わると夜のクラスまで3時間ほどあります。
職場から飯坂の入院している病院も、赤ん坊が入院している病院も30分程で行くことが出来ました。

まず飯坂のいる病院へ行き冷凍保存されている母乳をもらい、そこからバスに乗り当時三軒茶屋にあった国立小児病院まで行くのです。
飯坂の主治医も、予期せぬ事態になっていったことに驚いていたと思いますが、僕の不安を取り除こうと、それまでより何かと声をかけてくれました。

ただ、はっきりとどうなるかは言えないと言うことでした。

その病院の看護婦さん達も、この病気について詳しくは誰も知りませんでした。
僕は多少苛ついていたのです。
何故こんな事になるのだろう?
凍った母乳の入ったデイパックをひざの上に抱き、バスの座席に座っていると、窓の外にやたらと親子がそれも、母親と一緒の小さな子が目にはいるのです。
こんなに小さい子が、街にはいたんだ。

知りませんでした。
いえ何も見えていなかったのです。

そして、前日あの病室に置きっ放しにしてきた、赤ん坊に着せるおくるみやタオルケットを思い出した刹那、静かに涙がこぼれ落ちてきました。

こんな事で、何故?
まだ、どうなるかも解ってもいないのに・・・・。
「おめでとう」「いらっしゃい」「はじめまして」と言う明るい声と笑い顔の中に迎えられるはずだったのに・・・。

国立小児病院の新生児室(通称3C)に着くと、まず手をよく洗い、上着を脱ぎ・・・。しっかりと身を包む長い白衣を着て、髪の毛を隠す深い帽子をかぶらなくてはいけません。
入口のマットは、巨大な両面テープの状態で靴の裏のほこりをはがし取っていました。

更に各病室の入口に備え付けられている手洗いで再度洗います。今度はうがい薬のイソジンの巨大なものが、蛇口の横に付いてました。
その巨大なポンプを押すと手に濃い茶色の液体が吐き出され、それで手をよくもみ洗いしました。手が荒れることを後から知りました。

生まれてすぐの母乳には、生まれてまもなくの純粋な身体をこの世の大毒(笑)から護る栄養素がたっぷり入っているので、これは飲まなくてはなりませんが、これを少し飲んだら、脂肪分の無い肝臓に負担のかからないミルクにすると言われました。

看護婦さんが、抱き方を教えてくれました。「えっ?抱いていいの?」
僕は、恐る恐る手を延ばしました・・・。

「わっ!」・・・何という軽さなのだろう。
今にも壊れそうなその身体には羽根でも生えているんじゃないのかと思うほどでした。
「僕と一緒に、いてくれるよね・・・?」「何処にも行かないよね・・・・?」

ふと時計に目をやると、もう職場にもどらなくてはならない時間でした。
空気の様に軽いその子を小さなかごの中にそっとおき看護婦さんに会釈をして、僕は更衣室へ向かいました。

白衣を脱ぎ、帽子を取り、上着を着て出口へ向かいます。
自動ドアが開いたとたん廊下の喧噪が耳に入りました。
現実・・・。
でも、ここにいる人たちは皆、何かしら重い病気を抱えた子供や孫を持っているのだと、思うと、その喧噪もなにやら身近に感じられ軽い親近感さえ抱くのでした。
職場にもどりながら、この病気を調べる方法を考えました。
まだインターネットは普及しておらず、パソコン通信の時代でした。

翌朝、新聞を広げて、ボーっと読んでいたら、信じられないことにそこに今まさに知りたい文字列が並んでいたのです。 「引き寄せた・・・?」

「先天性胆道閉鎖症」
この病気を持つ子供の親御さんが集まっている会があるのです。
僕は、思わず新聞社に電話しました。

そして、この記事を書いた方ではなかったのですが、担当部署の方とお話ができて・・・。
その新聞社のデータベースから、過去に「先天性胆道閉鎖症」を取り扱った記事のバックナンバーを教えて下さったのです。
(実はいきなり電話して調べてくれるものではないことを、後に知るのです)

僕はそれを頼りに、そのバックナンバーのおいてある図書館を探しました。
目黒区立守屋図書館にありました。
だんだん、先天性胆道閉鎖症というものが分かりはじめたのです。

それまで人ごとでしかなかった、「生肝体移植」と言う文字を同時に調べるのとさほど変わらないことが解りました。

当時生肝体移植をしている病院は、日本では信州大学と京都大学しかありませんでした。
海外へ行かれた方もいらっしゃるとのことでした。
その際には、渡航費を含めて二千万円ほど準備しなくてはならず・・・・。
親御さんの会は、そのような費用を募金で集めようとする意味もあったようです。

こんな沢山の費用は、募金でなければ普通は用意できないでしょう。

仕事の合間合間の、下調べなのでそんなに順調に全てを理解することはできませんでしたが、かえってそれが良かったのだと思います。
変に知識ばかり身について、先走ることが無かったから・・・・。

国立小児病院へは、時間の許す限り通いました。
飯坂も退院し、面会時間いっぱいっぱい、時に少し早く行きすぎて、時に延長して看護婦さんに催促されるまで、はかなげな小さな命に付き添ってました。

検査入院は一月間です。
その間に、今後の予定も立てられていました。
五月の連休後に開腹手術をして、実際のところ臓器がどの様な状態か調べ、可能であれば
そこで処置をする。
可能でなければ・・・・。

何もせずに閉じる。それは移植を意味することでした。

新生児室の面会時間は、一人の赤ちゃんにたいして一人の保護者しか入れませんでした。
飯坂が白衣と帽子をまとい中にいるとき、僕はガラスごしに写真をたくさん撮りました。
他の患者さんや保護者が写らないように・・・・・。

それは、想像したこともない様々な先天性の難病を抱えた新生児が沢山いたのです。
殆どがケースの中にいました。また、殆どがとても小さかったのです。ビックリするほど。

看護婦さん達とのコミュニケーションも増えました。
主治医との面談もありました。

生後一月の赤ん坊のお腹をメスで開くのです。
治って欲しいとは思いましたが、女の子です。
その事を思うと、何とか開腹手術をせずに治らないものかと・・・・・。
知り合いのドクターに尋ねました。

そんなとき、お腹に小さな穴を空けてカメラを入れ行う手術があることを知り、その話もしたところ、まだまだ技術が発展途上だから、やはり開腹をすすめると言われがっかりしたことを、覚えています。

また、ある方は新興宗教の世界へお誘い下さいました。全くの善意です。
集会場?(元来お寺や神社と言われている場所でしょう)にも何度か御一緒させて頂きました。そして、いよいよ、明後日手術だと言う日に、とても親しい知人から紹介された中国人の気功医師と会うことができたのです。

これで、治れば、「奇跡の気功」なんてマスコミが飛びつきそうですが・・・・。(笑)
確かに奇跡もあると思います。
宗教の力も、気功も疑ってはいません。夢も叶うでしょう。
でも、やはり叶わない夢も、力及ばない宗教も、気功治療もあるのです。
特に時間が限られていたのですから・・・・。

四方八方に手を尽くし、手術前に僕たちができる限りの情報を探し、手を打ちました。
 
そして、五月の連休が終わった日。
生後一ヶ月の天使の大手術が始まりました。

全く、自分でどうすることもできない大きな時間が音をたてて流れていて・・・。
僕は不思議なことに流されず、ただ一カ所にとどまってその流れを眺めている様でした。
                                  Yoshinori.K

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キャトル・キャール Vol.28

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

四月四日に心音が止まり、緊急帝王切開で無事に生まれた子供は女の子でした。
とても小さくて見えました。
新生児室に寝かされました。

飯坂の病室は廊下を隔てた向かいにありましたので、すぐに顔を見る事が出来て安心でした。しばらくすると、今生まれたばかりの新生児が入ってきました。また、しばらくすると・・・・・。

みんな元気よく泣いています。
でも、その女の子は泣きませんでした。
泣いている赤ちゃんが見えるのだろうか?
首をそちらへ向けて・・・・・。何というか・・・・。
慈しむ?

もし言葉が出せたなら・・・・。
「もっと泣くのがいいのよ。お泣きなさい。」
「私は、もう十分泣いたからいいの。・・・・」
まるで、そういっているような雰囲気で見ていたのです。

ちょっと不思議に思いました。
変わった赤ちゃんかもしれない?・・・・。

翌日仕事に行った僕は、休憩時間にドクターへ電話しました。
勿論御礼もありますが・・・・。
今まで見てきた、飯坂に対する処置への疑問点を尋ねようと思ったからです。

その電話で、僕は言われました。

「生まれたお子さんは、先天性胆道閉鎖症の疑いがあります。」
「とりあえず専門病院へ転院させることをお勧めします。これから転院の手続きに
移ります。このお電話で同意して下さりますか?」・・・・・。
僕は、理解しようにも、しようがなかったのです。

全く知らない病名をいきなり言われました。
ただ、その静かな言い方と「先天性」という音が僕の頭の中に響いてました。
それは、調べなくても重大な疾患があると容易に想像させるのに十分でした。

そこで待って欲しい気持ちなど全く起こらず、「お願いします」と頭を下げている僕が
いました。

転院は明日の夕方と言うことでした。
都合がよいことに、4月のセミナーはまだはじまっておらず・・・。
午前中から病院に行き、主治医の説明を聞きました。

殆ど頭には入りませんでした・・・・。
ただ、お母さん(飯坂)は術後の身体で、1週間ほどの入院が必要なため
搾乳した母乳を僕が届ける事になると言われました。

転院の予定時間になり、赤ん坊は透明のなにやら解らないけれども沢山の管が
ついているガラスケースに入れられました。
小さな身体が尚一層小さく見えました。

彼女は、泣きませんでした。
ただ黙って、忙しく動く回りの人々を大きな眼を見開いて見ていました。
そこには、僕の顔もありましたが、ベットにいる飯坂の顔はありませんでした。

ヘルメットをかぶった、救急隊員によってそのケースは救急車へ運ばれました。
僕は、ただただ、訳も分からずそこについて行くだけでした。
外はもう暗くなっていました。

救急隊員の後に付いて行きながら、病室にいる飯坂を思いました。
赤ちゃんと一緒に退院するために用意していたおくるみやらタオルやら、紙おむつ、
ベビー肌着が、残されていると気がつくと何かこみ上げて来そうになりました。

これからどうなるのだろうか?
何がはじまるのだろうか?
全く予想が出来ないのです。
救急車は、とてもゆれました。
僕は必死にケースを止めているアルミのフレームを握りしめました。
右に左に車は容赦なく曲がります。
一体どこへ行くのだろう?
いつまでこの道は続くのだろうか?
手はいつしかびっしょりと汗をかいて、アルミのパイプが滑ったのを覚えてます。
僕には長く長く感じた時間も、後でよく考えると15分位だったのでしょう。
救急車は、転院先の病院に到着しました。

詳しい場所も病院名も聞かぬままにいえ、言われたかもしれませんが記憶にないのです。

看護婦さんが二人待っていました。
患者は皆病室に入っており、面会の時間も既に終了していたせいか、誰もいない
廊下をまだ名前も付いていない僕の長女はガラスケースの中、運ばれました。
後ろを付いて行く僕には、様子を伺うことはは出来ませんでしたが眠っているように思えました。

「ここは何処だろう?」
「何故、僕はここにいるのだろう?」
きっと事故を起こした後、病院に運ばれた時に感じる様な気持ちだったのです。
生まれてから三日目です。
新生児室に長女は連れて行かれ、そこの小さなベットへ移動されました。

その時僕は、病室に入ることが出来ませんでした。
ガラス越しに室内を見るだけです。
特に僕がいる必要もなく、面会時間も終了していたので受付で手続きをして帰ることに
なりました。

人がまばらになった受付の緊急窓口に行きました。
提出すべき書類を確認、記入しサインをして僕は病院をでました。
振り返ると「国立小児病院」という古びてはいるけれども、何処か重厚な看板が目に入りました。

新生児室にいた看護婦さんが言っていた「検査入院」という言葉だけが、頭の中に浮かびました。
「いつまで入院するのだろう?治るのだろうか?」

外はすでに真っ暗でした。
時計も持っていませんでした。
何時だろう?ここからどうやって帰ろう?

考えることが面倒になった僕は、丁度通りかかったタクシーをひろいました。
右も左も解らないのでした。
救急車に乗った病院はどうすれば行けるのだろう?

黙って病院名を告げました。
運転手は、うなずくとアクセルを踏み込みました。
どっと疲れが押し寄せてきた僕は、シートに深く沈み込んで行くような感じがしました。
解らないことだらけで、空回転をし続けた僕の頭は、考えることをやめてしまいました。

しばらく走るとにぎやかな通りに入りました。窓に映る景色は、見知らぬ街でした。
飲食店やコンビニが賑やかなお祭りのように見え、その祭りの中で沢山の人が入り乱れて
練り歩いているように見えました。

今さっきまでいた病院の静けさとは全く違う喧噪に僕は戸惑いました。

そして、その賑やかさを見ているのに苦痛を感じた僕は目を閉じました。
刹那、フッと深いところへ落ちて行く心地よさ・・・・・。
「お客さん着きましたよ」という声にハッとして、目を開けました。

「わぉっ!」さくらが満開でした。
それも暗闇に真白い大きな光の輪が幾重にも闇夜を照らしていました。
「綺麗!」僕は思わず息を飲みました。

10日ほど前、破水による緊急入院をしてから、毎日この病院に通いました。
昼間、空気はだんだん温かくなりつぼみが開き、いつしかこの病院の回りは全部桜だっことを知ったのです。

それを知らなくても、この時期に生まれた子供です。
何も知らない義父は、「桜子」なんていう名前はどうだろうと、生まれた直後にかけた電話口で嬉しそうに言っていた事を思い出しました。

「桜子?」
おいてきてしまった僕の長女は、「桜子」という名前なのだろうか?
しばらくその桜を眺めていた僕は、「桜子?」と呟いたとたん、われに帰りました。
料金を払い終えて車を降り、病院の入口に向かいました。

面会時間は終了していましたが、事情を説明したところ、「名前を記入して、15分ほどでもどって下さい」と言われました。

病室の飯坂は、まだ起きてました。
僕の頭には今行った病院の地理的位置が分かっておらず、静かな古めかしい病院。そして小さな赤ちゃんばかりの病室。ガラスケースとピッピッという金属音だらけの場所を・・こんな事が訪れなければ決して知ることがなかった病室を説明しました。

彼女も、胆道閉鎖症とは何か?国立小児病院とは?・・・
全く知らなかったのです。
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分かれ道 VOL.27

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

料理講師の定職に就いた僕は・・・・・。
飯坂とこの先どうしてゆくのがよいのかと少し考え始めました。

飯坂は既に当時白山にあった名店「La bell de jour」(ラ・ベル・ド・ジュール)でソムリエールとしてバリバリ仕事をしていました。
そして、巴里にいる時にかなり身近に接していましたから、どう考えても
家庭におさまるタイプではないし・・・・・。
店を持つには、先立つものが二人とも全くないどころか・・・・。
マイナスだったのですから。(笑)

とはいうものの、二人でいると料理の話は尽きず・・・。
性格は全く正反対。
価値観もかなり違う。
レストランに関してはかなり近いものは持っていそうだけれども・・・・・。
僕と違う部分でかなりの頑固者でした。(爆)

果たして、上手くやっていけるのだろうか?

考えているうちにお互いに無いもの、僕は料理の、彼女はサービスのプロなんだと、
誰かが僕の頭の中でささやきました。
問題が起きたとしても、理性的に解り合うことは可能だろうと思い始めました。(笑)

後にそれが、全く甘い考えてあったと気づいくのですが・・・(爆)

お互いの家族を紹介しあい、籍も入れ自然に飯坂のおなかも大きくなってゆきました。
不思議なものです。
今まで人ごとだったのですが、こうして間近に経験すると人間とはやっぱり動物で、そしてあの映画「エイリアン」を考えた人も、やはり人間だから考えたのだなと(笑)
飯坂が言いました。

「何か得体の知れないものが、自分の意志と全く関係の無いところで自分のはらわたを触っている。今まで、決してさわられる事が無かった部分を・・・・。 このいいようのない恐怖のような気持ち悪さは、何だろう。」

僕としては、「ふーん」と聞くより術はなく・・・。
そんなものなのかとうなずいてました。(爆)

僕は、会社員の様に、定時の地下鉄で通う日々になりました。
飯坂の毎日は知りませんが、いつの間にか近所の女性歯科医と友達になって一緒に夕御飯を食べる仲になっていました。

会社員のようにとは言っても、料理の世界です。
夜のクラスは晩ご飯の時間帯なので、片づけ終わって帰れば0時に近い事もしばしばです。

それでも夜のクラスが無ければ、夕方に帰る日もありましたから・・・・。
今までの世界では考えられない自由を得た、それはまるで監獄から釈放された様な気持ちでした。

ふと思いました。
僕の友人の料理人で子供を授かった者が何人かいるのですが・・・・。
朝早くに家をでて、帰宅は深夜。
日曜開店の店であれば、幼稚園や小学校の運動会、学芸会もままなりません。

ホテルや上場会社のレストランならいざ知らず、街場のレストランは労働時間も休日も人並みでは無いのです。
昔よく言われました。

料理人と美容師は、労働基準法適用外(笑)
おおむね職人仕事というのは、自ら覚えたくて入って来ることが殆どなので、時間だぞと言われても、終わらず働くことが多いのです。

そして、自ら働く人間を、誰もやめろとは言えないものでした。

だんだん、僕に料理教室の話が来た理由が・・・・。
わかり始めたのです。

友人、先輩達は、一様に「料理教室!?」と言ったけれども・・・・。
巴里から帰国したとき、料理人として働くことを半ば止めるつもりだったのに・・・。

きっとバリバリの料理人になる気が失せていたから、料理教室という職場に何の疑問も抱かずにお世話になる気持ちが起こったのでしょう。
引き寄せている現実。
そして引き寄せたものが未来をまた引き寄せている。

僕はそれまで未来は自ら作るものだと思っていたのです。
原因は自分にあり、その結果未来が作られるのだと・・・・。
ところが、自分の全く手の届かないところで、すぐそこにある未来が作られている事を知り始めました。

生まれた子供は女の子でした。
とても難産でした。
三月の末に生まれる予定で入院したのですが、カレンダーは四月に変わってました。
その子は、甘えん坊だったのです。おなかの中にずっといたかった様でした。(笑)

病院の回りは桜が満開でした。
地下鉄の駅からバスに乗って病院まで行きました。

まるで病院へ行く花道の様に咲いているのです。
その時僕は、一般の料理人より自由に動ける時間が持てたので、それなりに長く飯坂に付き添うことが出来ました。

そして、今のりあん同様、第1週目にはクラスが無かったので、より時間を気にせず
病院にいることが出来ました。

こんな事を、計画的に作ることは無理です。
自分で作ったのでは断じて無いのでした。

心音計が二つあることを不思議に見てました。
あぁ、新しい生命体が本当にここにいるんだ。
とてもしっかりした心音に思いましたし、廻ってくるドクターもそういいました。

四月四日目になりました。
ふと気づくと、しっかりしていた心音が心なし小さくなったように思いました。
あれっ?

消えたのです。

これは何を意味するのだろう?
僕の頭は混乱しました。

「死」?

昨日まで、元気な赤ちゃんですねと言われていた、この心音を僕たちに送り続けていた
生命体が死ぬと言うことだろうか?

かなり慌てながら僕はナースコールを押しました。
ドクターも看護婦さんも一気に集まりました。そしてベットを移動し手術室へ向かったのです。緊急帝王切開が始まりました。

あまりにも知らないことが次から次へとやって来て、僕は地に足が付いていなかったように思います。

手術が始まってどの位たったのでしょう。
何処にも行けず手術室の扉の真ん前でたっていた僕のところへ、アルミニュウムの様な
ものに来るんだそれこそ小さな猿のような生物を(笑)看護婦さんが持ってきました。

本当に小さかったです。
「赤ちゃんもお母さんも元気ですよ」と言い残して、すぐに彼女は何処かへその小さな生物を持ってゆきました。

へなへなと座り込んでしまうような安堵とは、このことだったのでした。(笑)

僕は我に還り、近くの公衆電話を探しました。
そして、手術室にはいる前、飯坂に言われていた順番に電話をかけました。
一軒、また一軒報告の電話をする度、現実を感じ、なんだか嬉しいような、こそばゆいような・・・。

でも、その後ろにだんだんと見え隠れするものの正体が何なのか?
何で全部見えないんだろう?

それはあまりに大きすぎて・・・・。
僕が生まれてから出会ったことが無いほど、大きな知らないものだったのです。
そしてそれが、こんな形でやってくる、それもすぐにやってくるとは・・・。
喜びの電話の中にいる僕には知る由もありませんでした。
                                          Yoshinori.K

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帰る日 VOL.26

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」
  ↑(これ本当です。大切な一行なんだけれども・・・・・)(笑)

C・D・G(シャルル・ド・ゴール、パリ国際空港)では、友達数人が見送りしてくれました。
到着しときは独りぼっちで降り立ったこの空港(それも早朝で人気もなく余計に寂しかったです)から、友人と二人して、見送りの友人までいる状態で帰ることになるとは夢にも思いませんでした。

一人なら感傷的になるところでしたが、気心の知れたメンバーですからいつもと変わらぬ調子で空港まで行きました。
荷物はトランク1つだけ。巴里で購入した料理本は、エールフランスに勤めていた友達に頼んで少しずつ日本へ運んでもらいました。
(大変だったでしょう。有り難うございます。一生忘れません。)

他はたいして財産的なものが無かったので、とても気楽です。

来た時に履いていたスニーカーは、革靴に変わり、着ていたウインドブレカーはトレンチコートに変わったくらいです。(笑)

飛行機に搭乗しても、昨日までとなんら変わることのない雰囲気同士なので、何を思う
間もなく・・・・。
夕べの送別会の夜更かしのせいもあって、すぐに二人とも寝入ってました。

一度食事の時間に起きて、あとはうつらうつら寝たり起きたり・・・・。
こんな時間は殆ど過ごした事が無いような十数時間を過ごしました。

本を読むわけでもなく、音楽を聴くわけでも映画を観るわけでもなく・・・・。
となりに座っている智世さんと、ポツリポツリ、日本に帰ってからの仕事について話しました。

「ねぇ、東京に帰ったらどうするの?」
「実家は横浜?だったよね。あっ、弟が成田に車で迎えに来てくれているから送るから」
「えっ。いいのに・・・。でもありがとう。私は、多分アパートを中目黒当たりに借りる かな?前にいた事務所が恵比寿だから・・・・。」
「で、一応そこで仕事があるか打診してみて・・・・。
 もしかしたら、すぐに仕事が決まるかもしれないしぃ。そうだといいなぁ・・・」

「ところで、かわな爺はどうするの?」(友達の中で僕が一番年長だった)
「どうしようかな、星の数ほどある東京フレンチだからどこかに仕事はあるよ」
とは言ったものの、仕事のないことは既に知ってました。

帰国を決めたときに、僕をフランスへ送り込んだ(笑)先輩に連絡したのです。
その時に、「バブル崩壊」という言葉を初めて聞き、「シェフポストは殆ど無いよ」
と聞かされました。

それに、実の事を言うと・・・・。僕は料理人をやる気が失せていたのです。

今まで、料理を覚えたくて必死に過ごしました。
料理に恋してました。
それは、料理人になる少し前に別れてしまった彼女との空白を埋めるかのように・・・・。
  詳細は(笑)→「愛される料理Vol.318」=失われた時を求めて=                 URL;http://ameblo.jp/riant/entry-10093651088.html

休みも欲しくなく、とにかく覚えたいことをやるために、空白な時間を作りたくなくて
何でもやりました。
結局、フランスにまで来てしまったのです。
そして、フランス人と直に話をして、仕事を手にしました。

当時、何のコネもなく、「あたって砕けろ」の飛び込み営業の様に、いきなりお店のドアをノックして仕事先を見つけている料理人は僕が知る限り皆無でした。
また、料理修行に来ていた料理人の中で一番稼いだ方だと思いました。

僕にとって大切だったのは、星付きレストランの梯子でもなく、有名料理のコピーを集めることでもなく・・・・・。

コネを使わずに自分でフランス人とぶつかり仕事を見つけ、その仕事はこちらから授業料を払うというようなバカげた研修扱いでなく、それ相応の報酬を得ることでした。

三ツ星レストランを六軒、都合八年間もフランスで暮らした先輩から言われました。
「馬鹿かおまえ、日本に帰ったら肩書きだよ。全て・・・・・。本当に青いんだから」

でも、もう終わりました。

そんな風に思えたのです。
実家に帰り、荷物をほどき、有効期限の切れた免許証を更新し、挨拶回りをし・・・・。
友人の結婚式に出席したら、街には、気持ちの早いサンタクロースがあちこちにお目見えし始めました。

そんなとき、浅見さんと言う先輩がシェフをしている店の手伝いをして欲しいと言われ、
彼の店で働くことになりました。

久しぶりに働くキッチン。
寝ていた僕の職人がムクムクと動き始めました。
身体に馴染んだ仕事です。

情熱が無くなったとは言え、動き始めれば、いつしか無我夢中になってました。
クリスマス期間中、働きました。
27日まで働き、28日の夜、オーナーが、トゥールダルジャンへ招待してくれました。

やっぱり、フレンチレストランで働く事になるんだろうなぁ。
名物の鴨料理を食べながら、そんな思いが頭をよぎりました。

考えればもう三十を越えたのです。
今まで、身体が覚えたことを他の仕事でやったなら、これからどれだけの時間がかかるのだろう?
それに、あの頭の中が真っ白になった状態で動き回る充実感が、忘れられないのでした。

この12月のヘルプが、料理人から離れた気持ちを再びつなげてくれました。

その頃、巴里で知り合った知人から、料理教室の料理長という仕事を紹介されました。
料理教室といっても、約300名も生徒さんがいて、殆ど毎日の昼夜にクラスが
開講されていました。

また、講義と食事という、それまで僕が抱いていた料理教室のイメージとはずいぶんと
変わった場所でした。
お話を伺いに青山の教室へゆき、講義風景を見学させて頂きました。

オーナーご家族は、芸能界関係者との事でしたが、そちらに全く疎い僕は、大変失礼
だったと、今でも思っています。

全く料理教室の料理長という仕事が想像できず気後れしていた僕は、ここにいるスタッフの指導やメニュー開発の責任者という立場なら、僕の能力で何とかなると思いました。

先輩や友人達に「料理教室で働くんだよ」と言うと「えっそれ何?何するの?」と言った返事が返ってきました。(爆)

これが後々の僕の人生を支える仕事になるとは、その時は全く思いもしなかったのです。人生というものは、また、ご縁というものは本当に不思議です。

2002年の1月。
僕は正式に、青山にある料理教室○○○ズの料理長となりました。

1月、2月とスタッフの技術フォローと新メニュー開発をして・・・・。
助走です。
3月になったら、応用コースの講師を担当するように言われました。
この日が、今の僕の出発地点です。

自分で作ることだけを考えて来た職人です。
世間一般では、そのような職人は監督、コーチ向きではない。人に教えるのが下手。
と相場が決まっていますし、僕自身も人様に教えるような柄じゃないと思っていました。

経験も、願望も全くなかったのです。
「思考は現実化する」とは、いったい何処の誰が定義づけたのでしょうか?
(ナポレオン・ヒル博士御免なさい)(爆)

「無・思考は現実化する」が本当です。(爆)

小学校の日直と生徒会副会長就任のご挨拶以外、教壇に立ったことがない人間です。
それが、いきなり20名の生徒さんの前に立ちました。

そして、生まれて初めての料理講師業が始まったのです。

説明の仕方、講師としてのノウハウなど全く知りません。
自分で納得したように、そのルセットを説明し始めました。

帰国して3ヶ月もたっていない当時、調理用語が・・・・・。
カッコつけている訳じゃないのだけれども(笑)・・・・・。
フランス語が先に口に出てしまうのです。

翻訳しているわけでなく、その動作は、その言葉(仏語)となっているのです。
その材料も、その言葉(仏語)なのです。

初めての教壇で何が一番大変だったかというと、頭の中で同時通訳していた事だったの
です。(笑)
                                          Yoshinori.K

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走馬燈 VOL.25

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

飯坂が日本へ帰った頃、秋の気配が巴里を包み始めました。
2シーズンお世話になった、小川さんがシェフを勤めるキャフェも、料理人のバカンスが全て終わったので、僕のポジションはなくなりました。

自分の味覚を試すことも、星つきレストランの仕事をすることも、日本人の全くいない環境で暮らすことも・・・。

普通に、巴里のバゲットを食べ、チーズを喰らい、ワインは・・・残念(笑)
映画も観光も、そこそこ楽しんだ方です。
やりたいことは、一応やってみました。
短かったけれど飯坂とあちこち歩き回り、思いもよらぬワインツアーも体験しました。

そういえば、前回書き忘れましたが、サン・テミリオンにも、足をのばしました。
ここは、本当に綺麗な村です。
こんなに綺麗な村は見たことがなかったです。(笑)
見たことがないって言うけれども、他に何処を知っているかって?

ランス、アルザス、コルマー、ディジョン、マコン、ボージョレ、リヨン、ヴァランス、ヴィエンヌ、シャモニー、ニース、カルカッソンヌ、ラギオール、ナント、カーン、シェルブール、ヴェルサイユ、パリ・・・・ぼちぼち一周です。

実はフランス料理修行を始める2年前。
先輩と後輩と3人でグルメツアーをしました。
50万円と往復チケット。レンタカーで毎日三ツ星を食べ歩きました。
その時に、上に書いた街のグルメ街道を走ったのです。10日間フランス食べ歩きです。
レンタカーにスーツをつめて、例えば林の中で着替えて三ツ星へゆくのです。
または、近くの安宿に宿泊し、スーツに着替え歩いて向かったのです。(笑)

閑話休題
もうすこし、巴里で暮らすことも、出来たのですが・・・・。
友人の結婚式と、母からの手紙。
そして、プロダクトデザイナーの女友達が帰国する事を決めたので、
じゃあ一緒に帰ろうかとなりました。「1991年10月17日」

巴里に来たのは、「1988年3月4日」でした。
1988年は、二つ星レストランで働きました。

1989年は、フランス人だらけの郊外のcafeでシェフをやりました。
その年の冬から1990年の初夏まで、7区のショコラチエで働きました。
そして、夏から晩秋まで、小川さんのキャフェで働きました。

また、その冬から翌年1991年の初夏まで、マンハッタンのフレンチレストランで働きました。
初夏から晩秋まで、また巴里にもどり小川さんのキャフェで働きました。

最初の二つ星は、殆ど喋ることがままならぬからこそ、身体中でフランス人とぶつかりました。よく笑いました。精一杯喋ってみました。
真剣に怒りました。言葉の幼稚さを笑ったフランス人をどつきました。(笑)

そして、その店を辞める日に、大泣きしました。(爆)

この店の入り口付近をウロウロした日。
黄色いチューリップの花束を右手に抱え、片言にもならぬフランス語で、今、僕の横にいるシェフと喋ったあの時間。
そして、働けることが知らされたあの電話。
生まれて初めて入るフランス人の厨房とそこで作られる料理。
オーダーや仕込み、ソムリエとギャルソンの顔が次々と・・・。

「走馬燈のように」という表現はこのことなのだったのかな。

その店の次に働いたフランス人労働者の集まるキャフェでの一人仕事は、飛ばしすぎて、途中から自らの箱に入ってしまったのでした。
山ほど積まれた皿を洗いながら、こんな労働をしに来たのでは断じてない。と自分に叫んだ瞬間。

仕事を探してあちこちの店に飛び込み、断られ続けた泣きたくなるような日々。そんな僕に声を変えてくれたパティシエの拓さん。

テンパリングもろくに知らない僕にチョコレートの魅力を見せてくれた、
ミッシェル・ショーダン氏。

最初のふた月は、やることなすこと注意されてばかりだったのに、後半は僕を信頼して下さりショコラチエにならないか?なんて・・・・(笑)

ミッシェル・ショーダン・ジャポンの設立と、彼との別れ。
僕は彼が雇った最後の日本人スタジエと言うことだったのです。

さて、また仕事を探さなくては・・・・。
そんな時に訪ねた小川さんの店で、ずっとお世話になるとは・・・。

毎日のように小川さんを訪ねてくる、威勢のいい料理人達。
巴里に来た多くの日本人料理人は、ここに挨拶に来ていました。

「川名君、○○さん知ってる? じゃあ××君は?・・・。」

芸能人も知らないけれども、フランス料理業界の方のことも知らないのです。

そんな小川さんには、大変お世話になりました。
ご自宅へ招かれて、日本食晩餐会とか・・・。
「巴里じゃドライブなんかしたことないでしょう」と彼の車で環状線のドライブに誘って下さったり。

ささやかではありますが人間らしい生活を味わいました。
この時、少し見えたのです。幸せの正体が(笑)・・・・。

そして激震のマンハッタン(笑)
「エキサイティング」の一言でした。
とにかく動き回りました。
それはプライベートも、キッチンも。

巴里は一人の時のんびり散歩とか映画、読書だったのですが、NYは違いました。
セントラルパークのジョギングか、マンハッタンのビルの中にあるスポーツジムでプールと、マシンづけでした。僕は遅番なので、16:00出勤でしたから遅めに起きて朝食、洗濯、掃除、買い物、散歩をすませ、昼過ぎにジムへ入り2時間ほど汗を流してました。痩せていた僕も、僕の人生で最高の「マッチョ」になりました。(笑)

仕事も早くて大量だったです。
キャッチボールの出来る厨房なんですから(爆)
ここで、2時間で100皿以上の魚料理を作りました。
単純に1分間で一皿。

身体は頭になり、頭は身体になり・・・・。
無我夢中を越えてました。
そしてこんな時は神経が研ぎ済まされるので、オーダーミスが全く無かったのです。

次から次へと入るオーダーを全て把握しました。
オーダーが入るとき、調理するとき、仕上げて出すとき。
全てが機械のように淡々と動いていたのです。

ジムとセントラルパークで鍛えておいてよかったです。
そうじゃなければ僕は、途中で倒れたでしょう。

2時間の集中攻撃が終わったとき僕のコックコートは透けて肌にピッタリ張り付いてました。そして立ちつくした僕の身体は、酸欠のためかブルブルと小刻みに震えていたのです。
それを見たブラジル人のセルジョが、アメリカ人のマイクに言いました。

「マイク、YOSHIを見ろ。ほら身体が小刻みに震えている。あんなに一気にこなすとこんなになるんだな。よくやるよ。」といいながら、タオルで扇いでくれました。

12月1日から5月31日までの半年間の契約終了。
巴里へ帰る時が来ました。

僕がNYにいる間に、何度か友人を送りに行ったJFK空港へ僕は一人で向かいました。
半年前より、出来ないなりに度胸だけついた片言の英語で、搭乗手続きを済ませ・・・。

僕は、後部座席窓側のシートに何も考えずに座っていました。

ジェットエンジンの音が大きくなり機体は走り始めました。
飛行機が離陸する瞬間を、今でも鮮明に覚えてます。

前輪が地表を離れグイッと身体がシートに押しつけられ一気に空へ向かう。
その地球の重力に逆らう圧力を、不自然に感じながら小さな窓の外を見ると、斜めになった地上に今まさに着陸しようとする機体が一機目に入りました。

離陸しようとしている本機と着陸しようとしているあの機体には、どんな人が乗っていることだろう?

大きな夢を胸に秘めてこのNYにやってくる人々。
そして、夢を叶えてこのNYを離れる人々。
そして・・・・。
夢破れてこのNYを離れる人々。

僕の頬に、涙がスーッと落ちました。

何故?
それは、大切なものが僕の中から確実に去って行く。
あの着陸する機体に、その背中が見えたからなのです。

その瞬間、そこに向かって何かを叫んでいる僕の声が、聞こえたような気がしました。

「来週、巴里を飛び立つとき、何が見えるのだろう?」
日本へ帰ることを決めたあの日、そんなことを思いました。

                                          Yoshinori.K
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ミッシェル・ブラ VOL.24

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

マルゴーからボルドー市街へもどった僕たちは、夕食のためのレストランを探しました。
駅周辺をくまなく歩きました。
ミシュランの赤本も持ってますが、やはり自分の目と鼻と・・・・。
お店から出てくるオーラで味を見つける方が確実でした。

かなり慎重に探しました。
予算は限られており、でもファストフードや適当にチーズとパンですますことはつかれていたせいか、何となく侘びしくて嫌でした。

いい食事がしたい。
豪華絢爛は望まない。
騒がしい音楽も、ざわめきも欲しくない。
胸を張って出てくるソムリエも、サービスも結構。
時間を慈しむのにふさわしい料理と空間を求めただけです。

何軒も店の前で立ち止まりました。
メニューを見て、値段を見て、店内をのぞき見して、客の入りを計って。
表通りは比較的に大きな店で、そこそこ入ってました。
また値段もそんなに高くもなく、気がゆるんでいたらつい入ってしまうような店ばかりでした。

でも、気がゆるんでなかったのです。(笑)更に探しました。
店がまばらになったので、右に折れてみたら、もうレストランはありません。
振り返り、今来た道をもどろうとした時に、更に入り込む細い路地が見えました。

行ってみると片側通行の細い路地でした。

この道は・・・・・・。
表通りとうって変わり、小さな店が肩を寄せ合って並んでました。
何となく期待はずれしそうな店も多かったですが、学園祭の模擬店のようで興味が沸きました。

いわゆる、只の観光客なら絶対に入らない様な少し、危険な匂いのする路地でした。
でも何故か、足が勝手に吸い込まれて行くのです。
十メートル程入ってきましたが、やはり期待できそうなレストランは無かったのです。

さすがに、そろそろ二人とも昼間の疲れが出てきて、意気地無くなり、表通りのよさそうな店にもどろうか、と話していた矢先紺色の日除けの突き出た店が目に止まりました。

小さな店でした。15席あるのだろうか?
焦げ茶色で統一された入口は、あまり目立たないのですが、上品さを感じさせ、きっと美味しい店だろうと思わせたのでした。

店頭にかけてあるあるメニューを見ると、「軽く蒸したひな鳥」とか、「あたたかいサラダ」とか「小海老の小さなタンバル」とか、どれも素直な感じの料理を彷彿させました。

値段はコースで¥4,000程でした。お客様は・・・
小さな窓があったので、ちらりと覗いたのですが、誰もいそうにありません。

僕の身体は、ここだと言ってます。
飯坂の方を見ると、うなずいています。

扉をあけると、若い女性と料理人がいましたが、入ってきた僕たちに気がつくと料理人は奥(きっとキッチンでしょう)へ引っ込みました。
店内を見まわすと、縦細の日本だったらさしずめ寿司屋か、炉端焼きかそんな感じでした。

余計な装飾は殆ど無く、都会的な明るい内装で、ホッとしました。
ボルドーの街は総じて古く建物も黒ずんでおり、何となく湿った感じの暗さがあったので、歩き回っているうちにその重苦しさに少々毒されてきているような気がしていたのです。

入口近くに少しばかり広い場所(カウンターがこちらまでのびていないため)があり、ここが上客の席だろうと思いました。

若い女性(多分ご夫婦で営まれているのできっとマダム)は、案の定、誰もいない客席の中からその席を僕たちに案内しました。
予約が入っていないときは、よい席からすすめるのが、レストランの常です。

メニューを見て飯坂はビックリしました。
「ここ、グラスのシャンパンがある・・・・。」
「私。これにしよっと。」

僕は相変わらずペリエですから、マダムに「グラスのシャンパンとペリエを・・・。」と注文しました。

すると、その美しいマダムは、とても困った顔をして言いました。
「申し訳ございませんが、ただ今グラスのシャンパンを切らしておりまして・・・」

僕は、飯坂の顔を見ました。
飯坂は、さもわかっていた風に、ハーフサイズのボルドーを注文してました。
飯坂は、いつもハーフサイズの注文について僕に文句を言っていました。
えっ、何故なら僕が飲めないから、フルボトルを注文できないのです。

ハーフサイズは味も銘柄も限られているのですから・・・・。(笑)
さて、ペリエとハーフサイズのワインがテーブルに揃ったので、料理を注文しました。

プリフィクススタイルのコースでしたが、同じテーブルでは同じ料理を注文する事になっていたので、二言、三言お互いの希望を伝え合った結果、若鶏とマンゴーのサラダと仔羊のローストを注文しました。
注文が終わるとマダムはキッチンの方へ姿を消しました。

おもむろに飯坂が僕の方へ顔を寄せ、小さな声で(大きな声でも解らないのですが)先ほどの説明をしてくれたのです。

「今日はきっと予約がないでしょう?私が何杯飲むか、彼女は考えたのね。東洋人で、女性で、多分若く見えたと思う(笑)。きっと1杯しか飲まないだろうとふんだの。そうすると、シャンパンを抜栓してしまうと、損してしまうのね」

ほー、そういうことだったのか。
最初に飯坂が驚いた理由が分かりました。

この店のどこに魅力を感じたのだろう?店内を見まわし物思いにふけっていた頃、前菜が来ました。
ローストとした鶏胸肉をスライスしてマンゴーの角切りを散らしてありました。
それにたっぷりではありますが、下品にならない程度のサラダがこんもりと綺麗に盛りつけられていました。

僕たちは無言でそのサラダを口に入れました。
二口目、三口目。ただ、黙って口に入れました。そして、二人で顔を見合わせました。
「旨いよ。これ」「ほんとだね」・・・。

僕は、その時もしかしたら仏蘭西で食べたサラダで一番美味しいサラダを食べたかもしれないと思いました。
ローストした皮の旨みとマンゴーの凝縮された甘みがビックリするほど「BON-MARIAGE」(よい結婚→よい組合せ)だったのです。

歩き疲れた僕たちにとって、予想を大きく上回る珠玉の味に巡り会えました。
メインの仔羊も、シンプルですが、丁度よい焼き加減で、繊細さと、ジューシーさをそのまま出してくれたのです。このそぎ落とした美味しさに僕は、とても魅了されました。

隠れ家の様な店でした。
きっと、若い二人が、精一杯の資金で始めたお店だと思いました。
最後までお客さんは僕ら二人だけでしたが、さりげない笑顔と物静かなサービスで、とても心地よい時間を過ごせました。

さりげない本物を感じました。いつかこんな店をやってみたい。
この一瞬間は、僕の意識の奥底にゆっくりと沈み落ちて行きました。

実は、ボルドーまで行くことが決まったとき、どうせならミッシェル・ブラまで足をのばそうと思いました。
今では、北海道の洞爺湖畔のホテルに、支店が入っているので日本でも有名ですが、僕がパリにいる時に、料理人の間で一番話題の店でした。

何せ、普通の料理人修行の道を歩まずに、ミシュランの二つ星(当時、現三ツ星)を取ってしまったのですから・・・・。

ミッシェル・ブラのある場所は、ボルドーから東に移動した山岳地帯のラギオールと言う村です。
鉄道の駅からは、かなり遠くバスは1時間に1本でした。それもお昼間のみ。
丁度出たばかりで、後1時間も待っていたら日が暮れてしまうのですから、仕方なくタクシーを使いました。

タクシーの運転手は、日本人を初めて乗せたと言って、とても喜んで途中でいいところをお見せするよと車をスタートさせました。
内心は、ちょっと不安にも思いましたが、何せ穏やかな田舎の村です。
山の中に捨てられることも無いだろう・・・・・。(爆)

連れていってくれたところは、断崖絶壁の沢でした。
そして向こう側には、燃えるような真っ赤な岩肌が切り立っていました。
それは、土中の鉄分が雨と空気にさらされ錆色に染まった巨大な岩の壁でした。

ここの土地は非常に鉄分が多くて、この村の特産物は鉄製品です。
ご存知のナイフ、フォーク、スプーン、包丁です。
加えて、肉牛も育てていて、その牛の角を使った柄が特徴です。
実は今日本で沢山出回っている、ラギオールのソムリエナイフですが・・・・。
僕らが行った当時(1991年)、一つも無かったのです。

ラギオールの村は、全長で1kmあるかないか・・・・。
村はずれは、ただひたすら山の中に消える道につながります。
その山道のある一カ所にだけ人々が集まり集落をなし村が存在しているのですが、その山道(一応国道だと思います)なりに鉄工芸品と、牛の角工芸品を扱う店が並んでいて、他にホテルとレストランとまばらに農家と畑・・・。ちょっと観光事務所。・・・その位が全てでした。

そしてその販売店には、沢山のナイフがありました。
飯坂は、目を光らせました。(笑)
ソムリエナイフを探したのです。

ところがTの字型のコルク抜きはあっても、ソムリエナイフが無いのです。
どこにも、どの店にも・・・・。はじからはじまで探しました。
飯坂は、常に持ち歩いているステンレス製のソムリエナイフを見せました。でも、どこの店でも首を横に振られたのです。

当時、ラギオールには只の一つもソムリエナイフが無かったのです。(笑)
ガッカリして多少の土産物を買い、夕食のためにミッシェル・ブラへ行きました。
リゾート地ですから、お客様はみな、かなりラフな服装で来ており、ホッとしました。
僕らはコース料理ではなくアラカルトで注文し、尚かつ野菜料理ばかり頼みました。
ミッシェル・ブラの売りは、この地で取れた野菜料理なのです。

飯坂は、自分の好みのワインを注文しましたが、何を頼んだのか聞きませんでした。
ただ、注文が終わると、マダムが近づいて来て、こう言いました。
「貴方は、料理人ですか?」・・・・・。
もろ、ばればれです・・・。(汗)
観光できた日本人が、長いことメニューとにらめっこして、こんな野菜ばかりの注文をするわけが無いのです。(爆)

「将来は、お二人でレストランを開くのですか?」
さてぇ。その当時飯坂も、僕もそんな話をした事はありませんでした。
日本に帰っても二人とも無一文ですし、まずはどこかの(飯坂は既に決まっていましたが)店でかなり長いこと働かなくては、店など持てるわけがないことを知っていました。

また、僕は、長野でレストランをやらないかという話があるにはあったのです。

ただ、やはり夢として、僕は自分の店を持ってみたいと思ってましたから、否定したくはありません。
つまりは、なるようになるだろうといった漠然とした状態でした。
その気持ちの裏側には、自分の問題だけでなく、飯坂の人生を巻き込む事への責任が何となく怖くもあり、決めかねていたのです。

でも、そこら辺のニュアンスまでフランス語で伝えることが出来ず、「はい。そうです。」なんて答えている、いい加減な僕がいました。(笑)
結局のところ、この日から4年たたないうちに、りあんを開店しました。

願い続けても叶わない夢があるのに何故叶ったのだろうと、考えたことがあります。

それは、心の中に、叶う夢の掲示板と、叶わない夢の掲示板があり、店を持つことは、叶う掲示板にしっかりと書き込まれていたのだと、・・・。

ある日誰かが、僕にささやいたのです。

                                          Yoshinori.K

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マルゴー VOL.23

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体と心が変わる。」

飯坂が日本に帰った後、僕は長く続けたほぼ一人の生活にもどりました。

僕には、何人か巴里に友達もいましたが飯坂は、何かあると小川さんのキャフェに来るか僕のアパートに来るかしかありませんでしたから、夕食は僕と一緒にする日が多かったのです。

彼女の料理は、ちょっと変わってました。(笑)
よく言えば、大胆(爆)

僕は、レストランの料理ばかり(自分で作って)食べてましたから、とても新鮮でした。
今でも沢山のヒントをもらったと思ってます。
特によく作っていたのが、ポトフ。

こういうとかっこいいですが、レストランではないのですから決まりがあるわけでなく、ただ何でも煮込んでました。
何で煮込みが多いのか尋ねてみたことがありました。

そうしたら「たった一つの電磁調理器というものでは、私にはこんな風にただ煮込むものしか作れない」と言いました。
これは、あながち間違えた選択肢ではなく、それどころか一番失敗の少ない調理法でした。
                      
「肉の種類が多くてなんだか解らないけれど・・・」なんて言いながら作ってました。
その種類とは、部位のことです。
日本では、フィレ、ロース、バラ、肩ロースなどをみんな薄切りにしてますが、フランスは、それらの部位を全て固まりでうっているわけですから、こりゃ何だろうと思って当然です。

料理人と言っても肉屋ではないので、僕も知らないものだらけでした。

彼女は一度海老をたくさん買ってきて、オリーブオイルとニンニクで「ガーッ」て焼いてデンと出してくれた事がありました。
ずいぶん豪勢だなぁと思いました。世話になっていた彼女なりのお礼だったのでしょう。

フランスは魚介類が高いのです。
僕はそれまで自分で食べる食材に魚介類などを買ったことがありませんでした。
高い割には、日本の方が美味しいと思ってましたから。

でも、日本のように世界各国から輸入しているわけでなく、ブルターニュや大西洋の鮮度のよい魚介類が入っているのも確かです。
こくがあって美味しい海老でした。

そういえば飯坂が、帰国する前にボルドーに行きたいと言い出したので、どうしたらよいか小川さんに尋ねたことがありました。
そしたら、オーナーに相談して下さったので、なんと「シャトー・マルゴー」のシェフを紹介して下さったのです。

シェフと言っても料理長でなく、現場の責任者の方です。駅長もシェフです。(笑)

普通フランスを旅するなら車ですが僕はあいにく車がないですし国際免許もないです。
その為国鉄を使いました。それ以外はひたすら歩く。(笑)
タクシーなんて、もってのほかです。(爆)

「シャトー・マルゴー」に一番近い駅名は?そのものズバリ「マルゴー」だったかな?
そこからひたすら歩きました。歩いて歩いて。
丁度夏のバカンスだったのでしょうか、人影の全くないシャトーの門を足を引きずる様に入っていったのです。

中に入っていくと初老のコンシェルジュがいらしたので、「巴里のムッシュー・Cから紹介されて、ムッシュー・Rにお会いする約束になってます。」と伝えました。

「それはようこそ、しばらくお待ち下さい」と言われ待ってました。
しばらくするととても大柄なそして、優しそうなR氏が現れ挨拶を交わしました。

彼は、沢山の樽が並ぶ倉庫を次々と案内して下さり、また樽を作る作業場や、観光客が訪れるちょっとしたテイステングルーム。・・・・。それから・・・・。

飯坂は専門ですからさぞ嬉しく楽しかったでしょう。
僕は意味も分からず、ただ飯坂の通訳(拙すぎるけれども)をしてました。

2時間ほどでしょうか。
ほぼぐるりと案内が終わり、さてこの後は、どこかに見学に行くのかね?
と尋ねられました。そんな予定はなかったのですが、飯坂が隣のシャトー・パルメに行きたいと言いました。
そしたら、じゃあ紹介するよと言って下さったので、予定外にそちらも回ることになりました。

隣のシャトーと言っても・・・・・・・。
延々と続くブドウ畑。だからなのか、建物は思ったより近くに見えるのです。

うそぉ~。また歩くのぉ。・・・・。
なんせ、自家用車以外は通りませんしそれさえも滅多に出会うこともなく。・・・
その遠くて近い(笑)隣のシャトー目指して歩きました。

こちらには観光バスが1台入っており、なんだかそのツアーの後ろにくっつく感じで見て回ったのです。

シャトーを2軒見ることが出来て、飯坂は満足そうでした。
延々と国鉄の駅まで歩くのですが、ずいぶんと楽しげに歩いてます。
やっとたどり着いた閑散とした駅前に1軒だけキャフェがありました。
ボルドー行きの電車時間を見るとまだ40分ほどありました。

僕は疲れてしまったのとトイレに行きたくて、飯坂とそのキャフェに入りました。
長時間、明るい外を歩き続けたので、やたら暗く湿っぽく感じました。
思ったより広い店内はがらりとしてました。
とりあえず、入り口に近いテーブルに腰掛け、僕はペリエを注文し、飯坂はビールを注文を取りに来たマダムに告げました。

注文が終わったので、そのマダムに「トイレは何処ですか」と尋ねると、裏だと指さしました。
僕は飯坂を残しテーブルからたち上がり扉が開いている明るいカーテンに向かって歩きました。
そして、そのカーテンをくぐると・・・。

一度キャフェの建物から外に出たのですが、その瞬間やっと暗いところに慣れた目がまぶしさに負けてしまって・・・。それに疲れも重なっていたのでしょう。
クラクラと立ちくらみの様な感じになりました。

急いで扉に捕まりしばらく目を閉じた後、開けてみると庭にたっている自分がいました。

「えっ?ここは何処?」まるでワープでもしたような気持ちでした。びっくりして何が
起きたのか・・・。頭がちょっと混乱してました。

でも、振り返ると今までいた席が見え飯坂が座ってます。
ここは、そのキャフェの中庭のようなところだったのです。
もしかしたら畑だったかもしれません。草花や、ハーブが咲いてました。

見るとすぐに小さな小屋がありました。
そしてそこまで草の生えていない小道が続いていたので、あれがそうかと思い、進みました。
何処を歩いているのだろう?なんだかおとぎ話に迷い込んだ様な気持ちになりました。
歩いても歩いてもその小屋にたどり着かないのです。
時間が遅くなったような錯覚が起きました。
ようやくその小屋にたどり着き目的を達成した僕は落ち着いて外に出ました。
よく見るとその小屋の脇の方で、いすに座っているおじいさんがいました。

そのおじいさんの目が僕の目と合いました。
僕は「BONJOUR」と軽く挨拶をしました。
おじいさんも「BONJOUR」と・・・・・・。そして、

「何処から来たのだね?」
「ベトナムかい?それとも中国かい?」と言うので、僕は頭を振って、
「日本です。ムッシュー」と答えました。

彼は「日本か?私は知らないな」と言いました。
この知らないと言う意味がどの程度知らないなのかは、聞きもしませんでした。

多分、彼にとって初めて出会う日本人だったのかもしれません。
そのようなフランス人には沢山会いましたから。
きっと小さな頃からこの畑で暮らし、ボルドーのワインと、ソースボルドレーズに包まれた肉料理を食べて育ってきたのでしょう。

「何しにこの村に来たんだね」と訊かれたので、そこのシャトーを見学に来たことを拙いフランス語で伝えました。

そうすると彼は、「ふーん」といい、次に・・・・。
「私は、日本を知らないが、見学したいとも思わない」と言いました。

それは、その言葉はしばらく僕の胸に止まりました。そして思いました。
何故、フランスに来たいと思ったのだろう?
日本では、見つけるものがなかったのだろうか?
フランスに行くことを当たり前のように思い、この国へ足を踏みいれた自分。

巴里にはそんな日本人があふれてました。
何かをつかんで帰国する人。訳あって、自らの意志とは裏腹に帰国せざるを得ない人。
いつの間にかこの地を祖国とし、それまでと全く違う人生を歩もうとする人。

僕は、・・・・・。
そのおじいさんにただ一言「さよなら」と言って、飯坂が待っているキャフェの中へもどって行きました。
                                           Yoshinori.K

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帰国 VOL.22

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

パリにある二軒のレストランで働いた飯坂は、とりあえず渡仏の目的を終えた様でした。
そんな時、僕はと言えば、さてこの先どうしようかと思案にくれてました。

飯坂は日本でソムリエ職が決まっており、そこのオーナーシェフから「帰ってこいコール」がかかっているようでしたが、僕は仕事の当てがあるわけではありません。

このままパリで仕事を探そうと思えば、どうにかなりそうですし、
生活費も料理人なら東京ほどかからずにすみそうです。

時間も、そりゃ料理人を真剣にやれば東京だろうとNYだろうと、多少きついのは
当たり前ですが、何というか時間がたおやかなのです。
情報が極端に少ないせいもあるでしょう。

果たしてこれが良いことなのか?
ただ、日本にいる母は、帰ってきて欲しいと思っているはずです。

丁度その頃、飯坂が間借りしていた部屋の女性が、僕の友人の料理人と結婚する日取りを決めたので、その披露宴に出席してほしいと言われました。

そして、日本から国際電話で「そろそろ帰ってきなよ」と重ねて言われたのです。

料理を作っている事自体は、何処でも同じです。
フランス料理をするには、フランスが適しているのですが、今の東京でしたら食材にも
道具にもそんなに不自由はありませんですし、僕の場合は、「醤油は使わないぞ」と
言ったバリバリのフランス料理を作りたいとも思っていませんでした。

そうなると、いくらバブルが崩壊した後とはいえ、東京ならこだわらなけれ仕事くらい
あるだろうし、お金を借りて、お店を持てるかもしれない。
なにより、僕の作る料理は好まれるだろう。

日本人なのですから日本で仕事する方が落ち着くに決まってます。

また、ほったらかしの免許証、住民税・・・・その他。
それ相応にすることが望ましいのは言うまでもありません。

何人の友人を送りにシャルル・ド・ゴールへ行ったことでしょう。

飯坂が帰国をする日、空港まで送りに行きました。
また、知り合いを迎えに行ったこともあります。

その度に、僕は帰るところがパリにありました。
勿論違法滞在ですが、自分の居場所というか、
暮らしていると言う気持ちがとてもしっかりとあったのです。
だから、送ったり、迎えたりしながらも、何のこともなく自分の居場所にもどって
暮らせたのです。

空港では、あまり普段と変わらない会話をしました。
僕はまだ帰国する日にちも、その決心もしていないので、何とも言いようがないでいると、彼女は、連絡先を書いてよこしました。

東京のフランス料理屋で仕事をすれば、どこかで連絡することは可能ですし、何かの折に彼女の働く店に食事に行くことも出来ます。

ただ、僕の心の片隅に、それまでの人生であまり感じたことのない、
何とも言いようのない空虚な気持ちが大きくなっていることを僕は知ってました。

それは、これから僕は、何をしてゆくのだろうか?
と言った、漠然とした不安でした。

何だか、「気が抜けてしまった」のです。
23才から料理を作れるようになりたくて、なりたくて・・・・・。
必死になって追いかけてきて、よっこいしょと気がついたらパリにいたのです。

いつも、目の前に何か壁がありました。
そしてその壁は、僕の情熱を奮い立たせたのです。
そして、いつもその壁にぶつかってきました。乗り越えたいと思いました。

その乗り越えたい気持ちを抑えきれずに今まで来ました。

これから、東京で活躍するぞ。
と、その時になって、僕を動かしてきた原動力が日に日に小さくなってゆくのを
感じてたのです。

飯坂のある意味お世話をしているときは、すっかり忘れていた感情です。
ところが、彼女が次の目的に向かって帰国する日。

僕の心の中に、置いてきぼりを喰らうような寂しさと、次に向かう場所のないどうしようもない焦りが・・・・。

それまでの必死な思いの代わりに、ものすごい勢いで広がってゆく様を、
僕は止めようがなかったのです。

パリの星つきレストランで仕事をし、「パリに滞在するなら忙しいときに手伝って欲しい」とその店のオーナーに頼まれるまでやり、その後フランス人だけのキャフェで料理長
(と言っても一人(笑))をやりました。

その間にNYへ出稼ぎに行き、祖母の味がそこでも通用することを確認したのです。

また、パリで何人もの優秀な料理人を指導してきた小川さんからは、
「川名君くらい力があるならいい店のスーシェフ(セカンド)をやってから日本に帰れば」とまで、言っていただきました。

でも、僕は、何故か空虚で独りぼっちでした。

いつでも、独りで動きました。
独りで店を尋ね、日本人のいない職場を望みました。
勿論小川さんは日本人ですが、こちらで籍を持ちパリ市民として生活されているのですから、僕の言うところの日本人とは思わず、小川さんのもとでもその感覚で働くことが出来ました。

休みの日も、食事も、散歩も、映画も殆ど独りでしたが、
全くと言っていいほど、「独りぼっち」を思ったことがなかったのです。

日本には、家族が待っているのです。帰る場所はあるのです。
にもかかわらず、空港で僕は自分が知っている気持ちの中で一番寂しさを感じてました。
学生の時につき合っていた彼女と別れる時のような寂しさではなくて、
何故かとても静かな寂しさを感じました。

飯坂がゲートに消えてから僕はひとりエールフランスのバスに乗り、パリへもどりました。
何も考えずに、ただ、ボーっと窓の外の風景を眺めて続けました。

バスはいつの間にか、ムンムンとむせ返るような街中に入りました。
どこもかしこも見慣れた風景です。

「きっと、もうそんなに長いことこの街にはいないだろう。」
そんな気持ちが僕の心に満ち溢れてました。

自分の部屋にもどったとたん、疲れがどっと湧き出てきました。

床に直に置いてあるベットの上に、死にものぐるいで走りきったマラソンランナーが
ゴールで待っているコーチのタオルの中に崩れるように倒れました。
そして、しばらくうつぶせになって目をつぶってました。

何分ぐらいそうしていたでしょうか、ごろりと仰向けになったとたん、
このアパートをかりたあの日のような青空が目に入りました。

次の瞬間、観音開きの窓の外の全くパリに似合わない真っ青な空から、
その白々しく冷めたような空気が、僕の瞳を通して胸の中の奥深いところに静かに
音もなく流れ込んでくるのを感じました。
                                  
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ラペルーズ VOL.21

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂が僕の働いていたcafeにきてから、それまでの秩序だった生活が多少崩れました。(笑)

彼女は、ジェラール・ベッソンで約束の期間を無事に過ごしているようでした。

僕は、内心驚いていたのです。
何故って、料理人の仕事は、腕さえ何とかなれば、会話が無くても成り立ちますが、サービスは、会話が全てでしょう?

その当時の飯坂のフランス語は・・・・。
どう考えても・・・でした。(爆)

だから、怖くてどんな仕事をしていたのか、未だ聞いたことがありません。

聞かない方がいいのかもしれません。(笑)

実は、飯坂は2軒のお店で働ける事になってました。
これも、何軒ものれんの前で(因みに、本当ののれんはありません)(笑)断られた経験を持つ僕にとっては、うらやましい限りでしたが。

仕方ありません。
オーナーの友人というコネの威力です。

で、そのもう一軒というのは・・・・。
メチャクチャ古いレストラン「ラペルーズ」 http://www.restaurantlaperouse.com/

聞くところによると、1766年に開店ですから、もう240年以上たってます。
最初は居酒屋だったのを、1850年にレストランへ大改造したそうです。

パリにある最も古いレストランの一つですからつぶせないのでしょうが、
きっと維持費が莫大にかかるはずです。
何代もオーナーやシェフがかわっているそうです。

たまたま、その当時のシェフと、僕がいたcafeのオーナーが友人だったということです。

ヴィクトル・ユーゴー、バルザック、デュマ、コクトーなんかがお客さんだったとか聞きました。(フランス語だからなぁ、間違えて聞いてるかもぉ)
店内の鏡には、どこかのお姫様がダイヤの指輪で刻んだ傷があったりして・・・。

セーヌ右岸には、同じくらい古いお店、「グラン・ヴェフール」があります。
http://www.grand-vefour.com/fr/histoire.htm 

ここは確か小泉元総理が食事に行かれたことで日本でよく知られたと思います。
僕はこの店がある、パレロワイヤルの庭園でジョギングしてました。
きっと世界中探しても、こんな奴いないと思います。(笑)

一番古いのは、「トゥール・ダルジャン」かな?1582年ですから。

皆様ご存知、「マキシム」は1893年ですから思ったより新しいです。
とはいうものの、「ラペルーズ」が古すぎるのです。(笑)

あっ、こんな話しセミナーではしないですからもう少し・・・。
リュック・ベッソンの映画「ニキータ」で使われた重厚なレストランを覚えていらっしゃいますか?

それは「ル・トラン・ブルー」→ http://www.le-train-bleu.com/
この店は、パリのリヨン駅にあります。開店は1901年です。
ここの天井は豪華絢爛。映画でもばっちり撮してましたが開いた口がふさがりません。
昔は、故ミッテラン元統領や、ブリジット・バルド-が良く訪れていたようです。
上記したURLで開くページのフォトギャラリーは是非クリックして下さい。
一見の価値有りです。

「フロール」「ラ・ペ」「ドゥーマゴ」「セレクト」「フロ」「リップ」「クーポール」等々文学cafeと呼ばれたり、芸術家のたまり場といわれた店々は、殆ど今から100年前、1900年の前後に開店しています。

そうそう、キャバレーの「ムーランルージュ」もこのあたりです。それはベル・エポック。古き良き時代です。

今思えば、全部訪ね歩いて写真を撮っておけば良かったです。
その当時は、料理ばっかり目がいって、食指が動く料理を出すお店以外にあまり行きませんでした。

写真も、今のようにネットで簡単にデータを流せるなら・・・。

お金は使えない、荷物は増やせない。とばかり、ろくに写真も撮らなかったです。
どちらかというとフランスに到着した頃の写真の方が多いです。

やはり、仕事をして生活が落ち着いたので、日常があまりにも自然となりすぎ、写真を撮る気持ちが起きなかったのです。
また、昔から写真より肉眼で感じたい。という気持ちが強いタイプでした。

それで、ガールフレンドの写真も全くありません。(爆)

今、僕が持っている一番多い写真は・・・・。
「料理写真」!(笑)

ずいぶん話しが、横道にそれてしまって・・・。(^^ゞ

ジェラールベッソンへは、食事に行きませんでしたし、飯坂も誘ってはくれませんでした。
そりゃそうですね。
フランスで、初めて働く店ですから、知り合いがきてくれても迷惑でしょう。

ところが、順応性にすぐれているのか、ラペルーズには、「来たら」と言ってくれました。
丁度、友人の妹が観光で来ていたので、その妹さんを中心に4、5名で押し掛けたのです。

幸いなことに、日本からの団体さんも入っていなかったので、とても静かなディナーとなり、飯坂のサービスをうけ、最後にはオーナーが出てきて、彼女に「あなたの友達へ好きな飲み物をサービスしなさい」と。

皆そんなに酒に詳しくないですから、彼女におまかせしたら、りあんにも置いてありますが「ヴァンドゥナチュレル」が注がれました。

食事の後、店内を案内され、その昔逢い引きの場所として使われただろう小部屋やあの部屋の中の鏡につけられた指輪の後や・・・・。

そうそう、10名様ほど入る部屋に入った時、飯坂が日本人の団体さんの話をしてくれました。

丁度数日前、この部屋に日本人ばかりが見えて、その部屋のサービスを担当したそうです。

お客様は、彼女をまさか日本人だとは思いもしないで、(こんな古典的レストランで日本人が仕事しているわけがないと思われたのでしょうか)英語で話しかけたそうですが、勿論、飯坂は英語より日本語の方が得意ですから(爆)、日本語でお返事したそうです。

そうしたら、普通「あっ、日本人だったのね」といわれそうなものですが・・・・。

な、なんと、・・・・。

「あら、あなた日本語がお上手なのね・・・」

飯坂は頭の中が「?????」。

その後黙ってサービスしたそうです。
僕は、その話しを聞いて笑いながら、非常に納得しました。

今でこそ、全く日本人ですが(笑)、初めてcafeを訪ねてきた時の彼女の会話は、とても流ちょうな日本語とは言えず、何処の国の人だろう?
いや、日本人だけれど、海外生活が長いのだろうか?というくらい、
かわった日本語を喋っていたことを鮮明に覚えてます。

日本なら、そうは決して思わないのですが、パリやNYで長いこと色々な国籍の人々と接していたせいでしょう。

すぐに、そう思ったのです。

そうそう、その日本の大勢様の話には、続きがありまして・・・・。
皆様お食事を終わられて、テーブルをたたれた後には、5F硬貨がきちんと人数分置かれていたそうで・・・・。

飯坂は感心するような、笑いたくなるような不思議な気持ちだったそうです。
                                  
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もとの生活へ VOL.20

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂がパリの二つ星、ジェラール・ベッソンで働き始めて数日。僕は、cafe勤めですから、朝が早く夕方には仕事が終わってます。一方、飯坂は、通常のレストランですしサービスですから朝はゆっくりで夜が遅くなります。

困ったことがあれば、僕のアパートへ来るか、留守なら扉の下へ手紙を入れるか、または仕事先のcafeの方へ電話をくれるでしょうから、何も起こらず順調なのだと思ってました。

僕は、飯坂と知り合う前と同じ生活に戻りました。

仕事が16時に終わると、地下の倉庫へおりていき、汗ばんだコックコートを脱ぎ去り、履き古したジーンズとトレーナーに着替え、何食わぬ顔で、いや貧乏学生旅行客の顔でパリジャン達であふれる街に紛れ込むのです。

若い子達で占領されている茶色と黄色のMac(日本では赤と黄色のマクドナルド)を横目で見ながら足早にメトロの入口におりてゆき、なま暖かい空気の中で地下鉄をまちます。

そして一度アパートに帰り、デイパックの中身を変え近所の市営プールまで歩いて行き 1000mほど泳ぐのです。いつも、多くの人が泳いでいるので、サッカーだけでなく水泳もかなり盛んなのだなぁと思いました。

巴里のプールは、他にも行ったことがあるのですが、まっすぐ泳ぐ人が多いので、(それがルールなのかも知れない)とても楽に1000mを泳ぐことができます。

1000m(10往復;長水路です)泳ぎ切ると心地よい脱力感を感じ、温かいシャワーをあびて(パリは銭湯が無いのでここで身体を洗うことが可能です)洗いざらしのバスタオルを頭からかぶります。

この瞬間が大好きです。

・・・でしょう?(笑)
すご~くいい気持ちですから。(笑)

巴里には、コインランドリーが結構あるので、僕は、ある程度給料をもらえるようになってからは、かなりまめに洗濯してました。何というか、何もないから清潔な幸福が必要だったのです。

バスタオルで頭を拭いた瞬間、今日の能動的な動きが終わります。アパートに戻る途中のスーパーで少しの野菜、ハム、チーズなどを物色して、隣のパン屋で1/2のヴィエノワーズ(バケットより柔らかくてほんのり甘い)を買うのです。

3年前のホテル住まいと違い小さな冷蔵庫があり、その中に多少の蓄えが有るからとても気分が楽です。
でも、あの頃より豊かな生活なのですが、買ってくるものはさして変わりません。料理人は仕事中、いい食材を使って、時間をかけてますから、自分一人のものとなると実に淡泊で、簡素です。

前述したもの以外は、・・・。そうだなぁ、せいぜい果物とヨーグルトかフロマージュブラン。決して、完全加工品(できあいのもの)は買いませんでした。

プライドとか、何とかじゃなくて、ただ単純に嫌いなのです。

巴里のアパートは殆ど電磁調理器具です。古い木造で隣り合わせにつながって作られているため、火事が起こったら大変ですから。
その為、炒め物よりつい煮込みものを作ります。

テフロンの小さな深めのフライパンに、バターと野菜と水をいれて蓋をする。エチュベと言う調理法です。

今、料理教室でよくご紹介するテクニックは、こんな時に僕が一人で手間なく作るために良く使っていたものです。(笑)

一人の食事ですから、あまり時間をかけずに、味も自分で知ってますし(爆)楽しむと言うより栄養素を補給する。と言う感じでした。

そういえば、かなり忙しい生活をしていたのですが、巴里ではサプリメントって取りませんでした。きちんと食事をする習慣が出来ていたんです。本当に疲れきったのは、途中で挫折した郊外のcafeだけです。ここは、以前にも書きましたが、自分で自分を箱に入れたのが原因です。 → http://riant.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_2753.html

食事の後は、たいてい散歩をしたり本を読んだりしてました。巴里という街は、散歩のためにあるような街だと思います。

そして、それは同姓でも異性でも良いのですが、心から理解し合える人間と共にいれば(本来、そうなら場所は何処でもいいのですが)その散歩は世界で一番美しい時間になると思います。

巴里という街が好きなら、ちょっと滞在してその空気にとけ込めるなら、それは誰でも詩人になれると思うのです。

お金がなかった、TVがなかった、友人が少なかった、・・・・。
電話がなかった、ゲームがなかった、ステレオがなかった・・・。
ビデオがなかった・・・。携帯がなかった(僕は今でも)(爆)・・・。
インターネットがなかった・・・・。

今の日本の生活でできないでしょう?

この時間を僕はもらったんです。 神様から。

いま、あなたが、人生を終わろうとしているなら、どの時間を美しい時間と思えるでしょうか?どの時間が、本当のあなただったのでしょうか?

巴里で暮らした、3年半は、僕にとっての美しい時間に他ならなかったのです。
今の毎日もそうですけれど・・・。
何もなかったから、騒音にかき乱されず、「毎日を味わえた」のです。

本を読んで、目が疲れたら散歩に出かけます。

ここは、セーヌと離れていたので少し残念なのですが、それでも建物を見ながら石畳を歩くだけでいいのです。

セーヌの近くで暮らしていた3年前は、ベットだけの部屋。トイレもシャワーも共同で、いつ強盗が入るかも知れない安ホテルでした。でも、僕は毎日セーヌを、ポンヌフを走り抜けて仕事に行かれたことが本当に幸せでした。

15区で散歩しながら、3年前よりうんと豊かになった生活をしていたにもかかわらず、あの時の幸せを懐かしんでいる自分を、知ってました。

それくらいセーヌは美しいのです。サンルイ島。何処を歩いても、写真の中にいる様です。シテ島は、公的機関があったり、バトームーシュの波止場があったりと機能された島ですから、サンルイ島の様な美しさには欠けます。

巴里で一番好きな場所は?と聞かれたら、僕は、ためらわずサンルイ島というでしょう。

もし巴里に行くことがあるのなら、サンルイ島を散歩するといいです。一人じゃ不安でしょうから、友達と・・・。< でも、おしゃべりをやめて、静かに歩くのです。静かに古い建物を見つめるのです。

そこに漂う宇宙とあなたと、一体になれるから。

僕がそして多くの人も愛した空間、時間。
あまりにも美しすぎて、切なくさえなってくるのです。

でも、帰ってきてね。(爆)
昔は、そうして巴里や異国に住み着いてしまった人がいたそうですから。
実は、僕もかなり危ないところでした。(笑)
                                  
                                       Yoshinori.K

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パリのアパルトマン VOL.19

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

飯坂が知り合いの紹介で尋ねて来た店に、僕がたまたま働いていたと言う、偶然で知り合った訳ですが・・・・。
彼女は、2つ星で働くことが決まりました。
「えぇっ・・・!」
               
やっぱりフランス人どうしのコネは強じんです。当たり前なのですが・・・。
でも完全に「たちんぼ」だろうな?

「たちんぼ」って、何も出来ない、何もさせてもらえない、何も解らない。
そんな状態です。一日が長くて、とても辛いです。

ただ、本人の顔を見るといたって平静です。

もしかしてよっぽど仕事できるのかな?
フランス語はあまりできないみたいだけれど、ちょっと変わった発音するから英語圏で長く暮らしていたのだろうか?
なら、フランス人以外のお客様の時に、重宝されるだろうな?

飯坂の素顔を知らない僕は、2重にも3重にも好奇心という想像に沢山の色とつやを上がけして見ていたようです。(笑)
実際は・・・。(爆)

さて、ジュンク堂で掲示板をみると・・・。
あります、あります。
短期貸し、ひと月2000Fと出てます。
これならあのホテルの半額で、一月暮らせます。

ただ、場所が今一遠いです。そこは・・・。「モンマルトル」
「えっ?」  「素敵な場所じゃない?」・・・ですか?
日本から思うだけなら、素晴らしいロケーションでしょう。
でも、その当時は、多少物騒なところです。
ましてやレストランで働くと言うことは深夜に帰ると言うことで、
女性一人ですから、ちょっと僕はためらいも感じました・・・。

とりあえず電話をして見に行くことにしました。
メトロの駅は、アンベール(ambert)?か、ピガール(pigalle)?か・・・。
(あれぇ、忘れてる)
この辺は生地屋さんが多くて、東京で言うところの新宿のような雰囲気の街です。
キャバレーもあります。(超・有名な赤い風車(ムーランルージュもここです)

待ち合わせの場所には、日本人の男性が二人。
どうも共同生活をしているアパートのようです。

色々話しをしたのですが、やはりお店から遠いのと、今のホテル(場所)が気に入っているというか安全なのです。それも彼女は感じたのでしょう。

一人で仕事にいって、不安だったり何かあれば、ぐるりと走れば、僕や小川さんの働く、既にオーナーまで知っているCafeがあるのですから・・・。

言わずもがな、僕もそれを感じ、丁寧にお断りし帰路に就きました。
せっかくだから、モンマルトルの丘にちょっと登って散歩してから・・・。
今、思い出すと何度行ったことだろう?知り合いが観光で来る度案内役で回るのはオルセー、ルーブル、モンマルトル、凱旋門、ポンピドーセンター・・・
そうそう、バトームーシュは夜がいいです。食事無しの・・・。
エッフェル塔は以外といかないんですよ。みんな。
東京タワーを知っているからかな?

飯坂はこのアパート探しで懲りたのか、あまり次を探すと言わなくなってしまいました。

そこで、僕が住んでいるアパートの近くに、友人(料理人)の彼女が暮らしているアパートがあるのを思いだし、相談してみることにしました。

フリーランスで巴里と日本で働く彼女は、結婚するつもりの彼が日本に帰ってしまったので、それにあわせて日本での仕事時間を増やし・・・・・。
でも巴里での仕事もあるのでアパートは維持していたのですが、はっきり言って、もったいない位だったのです。

それで、彼女が払っている家賃の半分を負担するのと、時々同居すると言う条件で、ここに住めることになったのです。
そこは、15区。モンマルトルと全く逆方向です。モンパルナスタワーの裏の方とでも言いましょうか、静かな住宅街です。
そうだな、東京で言えば、16区が世田谷区で、15区は目黒区って感じかな?
ここなら、夜メトロから降りても歩いてすぐですし、街灯もあり、そこそこに大きな通りから入ってすぐですから、街の雰囲気も安心を感じさせます。
それに、僕のアパートにも歩いて来られる距離です。
その話しをしてから飯坂の紹介に行ったら、やっぱり女性の部屋ですから気が休まるのか、すぐに気に入って話しはまとまり、ここへの引っ越しが決まりました。

飯坂の本格的な、巴里生活の準備が整いました。
引っ越しを手伝い、僕のアパートまでの道順を教え、時々小川さんの店に顔を出すと言う話しをしながら食事をして、フランス料理のこと、経験のこと、ワインのこと・・。
とりとめもない話しをずいぶんしました。

彼女はソムリエだからやっぱりよく飲みます。
飲む人は、いいです。勝手に飲んでくれるから。(笑)

料理人は飲む人が多いですが、飲めない僕がつき合う人は皆、徹底的な飲んべえです。
そのレベルになると、相手が飲んでも飲まなくても関係ないからです。

彼女も一安心したのでしょう。
かなりいい気分になってます。

これでだいたい彼女の仕事ぶりを感じることができました。
やっぱり、仕事は出来るでしょうし、ワインをよく知っている。

僕はおもしろくなって、ブラインドテストよろしく、彼女が持っていたワイン本からワイン名を当ててもらうことにしました。
が・・・・。全く外れましたぁ。(笑) 

間違っていても、解らなくても全くわびれる風が無いのです。(笑)
なかなか、おもしろい愛嬌です。
「今まで出会ったことのない個性を持った人だなぁ」と思いました。(爆)

ついさっきまで不安だった巴里生活の先行きが見えたからでしょう。
ずいぶん今までとは違うリラックスさを感じたのです。
やはりホテルじゃ高いし、自炊できないし・・・。
僕が初めて見たカード払い(笑)だって、後々の事が心配だろうし・・・。

「ベッソンでのスタジエ期間は2週間だっけ?」
「うん」
では、その2週間と引越祝いそして・・巴里生活に。

「乾杯!」
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ソムリエール VOL.18

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

さて、飯坂のアパートを探すとは約束してしまいましたが・・・。
一般的な不動産屋さんへ行くことは出来ませんから、裏情報を探すのです。
日本人同士での情報交換や、料理人からの紹介。また期間貸しなど・・。

そうそう、ホテルは、キャフェの近くの大通りに面したところに、
小さくて手頃な価格の(約5000円)の部屋が見つかりました。

個人経営かな、なんだかアパートみたいでここで暮らしてもいいんじゃないの?
そんな感じです。
見つからなければ、きっとそうなるでしょう。

僕の場合は、とにかくお金が殆ど無かったので、当初アパートなんて考えても
見ませんでしたし、ホテルだって裏路地の激・キワモノと相場が決まってます。
女性一人じゃそれは、無理というもの。きっとお金があるんだなぁって思いました。

一応、僕がコンセルジュと話して、1ルームでシングルベットの部屋が決まりです。
連泊は、毎朝言ってくれればそれでよいとのことで、こりゃ便利です。

部屋を決めた僕は、(ホッ)仕事帰りですから、お役御免とさっさと引き上げるのですが、彼女としては、小川さんを頼ってきたものの、小川さんが僕に振ったものですから・・。なんだか、話しをしたそうです。

今夜の晩飯くらい、一緒にいた方がいいかな?なんて思ったのですが、荷物の整理や着替えもあるでしょうから、「夕方ここに一度来ようか?」と言いました。

そしたら、そうして欲しいというので、僕はいったん自分のアパートへ帰り時間を見計らって、もう一度仕事場の近くへ向かいました・・・・。

メトロにのって・・・。
エッ、何。停まってるぅ!  えっ、スト? さっきまで動いてたじゃん?

いや、困りました。

去年なら、仕事場からホテルまで歩ける距離でしたが、、今は。メトロ通勤。
「約束したしなぁ」
「独りぼっちだろうし」

パリは、小さな街です。東京の3区をあわせた位と聞いたことがあります。
(どれとどれとどれだか忘れましたが・・・)

確かに、パリに来た年の僕なら、興味も手伝って平気で歩いた距離ですが・・・・。
もう、あらかた散歩してしまって日常生活している今では・・「歩けな~い。」
とはいうものの、緊急事態です。

歩きましょう。
「行かなくちゃ。君に会いに行かなくちゃ、君の街に行かなくちゃ、メトロがない」
(ご存じですか? 「傘がない」=井上陽水=)

なんて口ずさみながら、散歩し始めました。
当時僕は、、NY帰りで(NYで毎日ジムに通ってました)、またパリは区民プールが
とても充実していて、毎日1000m程泳いでましたから、何の苦もなく歩けます。

どの位(時間)歩いたのかな?時計を持たない人でした。
コンセルジュに彼女はいるかって聞いたら、いないって・・・
えっ、何処へ行ったんだろう?

「おりゃ約束守って、ここまで歩いてきたのに」
「ひでぇ女だ」・・・頭の中にポワーンて浮かびました。

コンセルジュに期待しないで聞いてみました。
「彼女、何処へ行ったかご存じですか?」
「あ、知ってますよ。隣のキャフェです。殿方と」

「へっ?何だいその殿方と言うのは・・・。」

かなり、頭に来ました。
「もう、ほっとけ」(爆)
とはいうもののすぐ横のキャフェならのぞいて見ても、いいかと・・・・・。

いました、いました。
ほんとだ、日本人の殿方と一緒にビールなんか飲んでいる。

「ふざけてるぅ~」

僕は、何気ない顔で、彼女のテーブルへ行きました。
そしたら・・・・・。
「あっ、来た来た。遅いから、小川さんのところへ行ったら、この人がいてね」
「料理人だって、小川さんを訪ねてきたみたい」

小川さんを訪ねて来る日本人料理人は、とても多く、ほぼ毎日のように
誰かかしら訪れるのです。

お互いに自己紹介みたいな事をして。。。。

僕が、一番パリの生活者みたいでした。
3年前は、僕もこうだったな。なんて思いながら話しを聞いてました。

パリにいるとこういったお茶の時間がやたらとあるのです。
特に違法滞在者どうしの情報交換が目的のようなものですが・・・。

みんなお金もなく、車もTVもなくて(あっても完全に楽しめてない)
それで一番リラックス出来る娯楽がキャフェでお茶なのでしょう。

話しをしていると彼女は1ケ月位。スタジエをするつもりで来たとのこと。
ここにくるまでに、ドイツとブルゴーニュにいたこと・・・。
北海道の人間であることなどを知りました。

ドイツや、ブルゴーニュを回ってきたから、落ち着いているんだな。
ただ、それにしては、あまりフランス語もできないみたい。
こんな女性がいるんだぁ。根性入ってるなぁ。と感心しました。

夜は、近所の中華へ行き、ホテルまでおくりました。

翌日僕は、8:00~15:00まで仕事ですから、その間は適当に過ごしてもらって
それから、アパートなりなんなりを探すことを伝えました。

昼間は何をしていたのか?今でも知りませんが、午後には小川さんのキャフェに来て
色々話しているうちに、ここのオーナーの友人の店を紹介してもらうことに決まりました。

2軒とも、名店です。(えーっ、何でぇ。うらやましい)
最初は、パリの二つ星の「ジェラール・ベッソン」
今、皆さんにお話ししているリヨンの三ツ星「アラン・シャペル」で修行しM・O・F
(フランス最優秀職人章)を1976年に取ったバリバリの職人オーナーです。

成り行き上、僕は通訳みたいな役目でついて行きました。
客席に、違法労働者を出しちゃうの?
料理人なら考えれませんが、女性、無報酬、短期、友人の紹介と言うことで、
すんなりOKとなりました。

それにしても、「ソムリエって言ったら・・お客さんフランス人が殆どだよ。」
「あんた、会話はどうするの?」
僕の頭の中は、それが心配なのですが、当の本人はいたっていい調子。

「ウイ・ウイ・メルシー」なんて言って笑ってます。(笑)
へぇ~。見かけによらず肝っ玉系ね・・・。(笑)
僕とは、かなり違う人種だなぁ。

色々話しをしていたら、ベッソン氏からひとつ条件が出ました。
「サービス中はスカートをはくこと」
「ホヘッ?」「そんなもんかい」「よく分からないなぁ」「それ個人的な趣味でしょう?」
(あっ、こんな事、間違っても言えません)

と言うことで、飯坂にそれを伝えると「持ってない」
今までのドイツとブルゴーニュは、遊学(ブラブラ)ですから、仕事用のスーツは
持ってないそうで、すぐに近くのブティックを回りました。

東京を出る時、僕は料理修行に行くわけで、みんなが応援して見送ってくれたのです。
その僕が、女性のスーツを買うために、ブティックを一緒に歩いている。
人生は不思議です。明日は何が起こるか分かりません。(笑)

何でも彼女は、日本の製品よりこちらのスーツの方が体に合うとか・・・。
(はい、はい。よかったこと)(笑)結構、格好いい黒服を見つけました。
会計は、お、カードを出してる。す、すげぇ・・・。

パリ生活3年。
その間に、僕を取りまく人々で、カードを使った人間はいませんでした。(笑)

一応、彼女は住むところと、しばらくの仕事が決まりましたが、やっぱりアパートが
よいみたいなので、探し続けました。
そうですよね、いくら格安な部屋と言っても、大通りに面した、オペラ座まで歩いて行かれるホテルです。一月いれば、軽く10万円を超えてしまうのです。

因みに、料理人達が探すアパートはだいたい、一月5万円位まで。
それで、オペラにあるジュンク堂書店の掲示板を見に行きました。

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ダイナミック VOL.17

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

パリでアパートが決まって、仕事が決まって。
人間は、住むところと仕事が揃うと、実に明るく、楽しく思えるものです。
日本で、真面目に暮らしていると、住むところと仕事が無くなる事って、
滅多にないでしょう?

よほどの場合、リストラとか、強制退去とか?
多分、これをお読みになっていらっしゃる方々は、なかなか経験されないのでは。

例え、期間が決まっていたとしても、それまで安心して住める場所と働ける、
それも報酬をもらえる仕事があると言うことは、幸せです。
当たり前なそれだけで、本当にそれだけで癒されます。
なんか、あったかい布団に包まれるような・・・・・。

おっと、わかった風な事を言っておりますが・・・。
日本では、ブーたれてばかりでした(爆)

さて・・・・。

再び、オペラ座近くのキャフェに通う毎日です。
大通りから一本入っているので、それもL字の内側を向いた作りなので、静かです。
去年、暮らしていた1晩800円のホテルは、近かったので毎日歩いて通いましたが、
借りたアパートからは、メトロ通勤です。
とは言っても、パリは小さいし、「カルトオランジュ」(オレンジカード)と言う、
メトロ全線利用可能な無記名の定期券(切符と同じ大きさ)が、とても安く買えるので
肉体的にも、金銭的にも楽々です。

8ケ月?10ヶ月ぶりに行って、みんながビックリしたこと。
それは、僕がカーリーヘアーだったこと。(爆)

特に店主は、男気の強いバスクの方です。

そうそう、バスク人(フランス国内ですが、自尊心が強くバスク人と自ら言うそうです)の男性が集まって、喋っていると、日本の男達が大声で喋っているように感じます。
髪も、目も比較的に黒い感じで、言葉のイントネーションがフランス人と違うのです。

そんなもんで、なんて言うか、男が髪を伸ばしてたり、パーマかけたり、きっとピアスしたりも、嫌いなんだろうなぁって思います。

長くなってパーマをかけた髪の毛を後ろで縛って、野球帽をかぶって・・・・・。
仕事をしはじめたら、「吹っ飛ばしてやる」ってな事を言われましたから。(爆)

もう、去年からのお付き合いで、気心が知れているので、彼も遠慮なく言ったのでしょう。

僕は、店の酒も飲まないし(爆)仕事は、真面目にするし、マダムと、シェフの信頼も
厚かったので、オーナーに何か言われても気にしませんでした。

彼の口癖は、、「スピード」と「ダイナミック」でした。
それでこんな事を言ってました。

「食器洗浄機を停めるな。ずっと回転させろ。」って・・・・。

何を言っているのかというと、洗うべき皿を、さっさとラックに並べて洗えよ。
と言うことなんですね。並べる時間は、限りなくゼロにしろと言うことです。

この洗い物は、パートのおばちゃまが、定番の冷前菜(サラダ、クリュディテ、ゆで卵、ソーセージとジャガイモ、ニシンのオイル付け、等々)を盛り付けながら、
やってくれるのです。

思い切りふてくされてました。(笑)

僕は、去年と違って、パーマをけた長い髪。彼の嫌いな野球帽。・・・・。
何か言いたげなのは、解ります。

でも、NY帰りは、スピードとダイナミックはお手の物でした。(爆)
自分でも、思ったのですが、行動がかなり早くなっていました。

注文を受ける時の最初の言葉でもう、準備して作り始め、出している。

ある時、オーナー自ら注文を持ってきました。
注文表を僕の目の前に出して、何も言わずに。。。
そして、横にいるシェフの小川さんと、明日のメニューについて、
なにやら喋ってました。

その間に、僕は、電光石火の如く作って、丁度キッチンに入ってきたギャルソンに
「あいよ」って料理を渡してしまったのです。
注文用紙にはテーブルナンバーがふってありますから。

シェフとオーナーの短い話しが終わりかけた頃、
「川名君 あれ、料理は?」って小川さん。

僕が、「もう行きましたぁ」って言ったら、二人揃って、「早すぎる」・・・・。

その後、彼は、野球帽と髪の毛をチェックしなくなりました。

NY、パリと暮らして思ったのですが、アメリカ人も、フランス人も
細かいところに気がつく人は、日本人より気がつきます。
口うるさい人も多いです。(僕の知っている範囲ですが)

バスに乗って、お年寄りが来ると、(外人の)僕に向かって席を譲れと他に空席が
あるにも関わらず、普通の早さのフランス語で言うくらいですから。
(パリもNYも日本と違って、外人、異邦人と言う感覚がないのだと思います)

でも、彼が価値とする部分を見せると、一切を認めるてくれるのです。
まぁ、僕が勝手にそう思うのかも知れませんが、とにかく楽なんです。
のびのびと生きやすい。

出来るものなら、このままここで暮らせたらなとも思うのです。
母からの連絡が無ければ、友人から帰ってこないかコールがなければ・・。

観光ビザで仕事している、一時の気楽さでしょう。
身の危険はあるし、修行なんて言葉が出ると、悲壮感や、大変さを感じてもらえるのですが、ハッキリ言って無責任な生活です。

いつもその二人の僕が出っ張ったり引っ込んだり。
そんな最中、一人の女性が、小川さんの元を尋ねてきました。

僕は、昼のサービスも終わり、(ここは、ランチだけです)明日への仕込みと掃除を追え、着替える為地下室へ行っていた時です。

鼻歌を歌いながら、階段をポンポンと上がって、真正面の窓際のテーブルでくつろいで
いる小川さんに、挨拶・・・。

黒い小さめのトランクを一つ持った女性と話しをしてました。

「川名君、ちょっとちょっと・・・」

「あのさ、友人で僕の前にここのシェフをやっていた鈴木君の紹介なんだけれど・・・」
「彼女、ソムリエなんだ。パリで少し働くので住むところを頼まれてるんだよね」
「えっと、名前は・・・・・」
初めて、飯坂と会った瞬間です。
「へぇ~。ソムリエ。女性で一人で仏蘭西に来られるんだぁ」

すごくビックリしました。
細身でスーツみたいので来ていて、OLみたいだったし。
確かに、その頃少しずつですが、女性料理人が出始めていましたが、
フランスで、女性の同業者と会ったのは、初めてでした。

で、小川さんが、これからどうしたいのかとか、住むところの話しなんかしているのです。

それで、僕に何を言ったかというと、
「川名君、彼女のアパート探してくれないか?」

(へぇっ? お、おりゃ違法滞在ですぇ~。)

とはいうものの、職人の世界の上下関係は絶対です。
何とか、探しましょう。・・・・
が、ですよ。もう夕方。すぐにはどうしようもないですし、明日も仕事があります。

とりあえず、2,3日は近所のホテルにでも泊まってもらいましょう。
と、大通りに出てすぐのホテルへ部屋をとってもらいました。

パリは、泊まるところは本当に便利です。

キャフェも多いけれど、花屋も、多いけれど、パン屋も多いけれど、
そうそうお菓子屋も、レストランも。。。(笑)ホテルも多いです。

ホテルが多いって言っても、東京の変なホテル街みたいじゃ無いですよぉ。
それから、帝国とか大倉とか・・・
とにかく大きなビルではないわけで・・。看板ないし。
全部同じ建物でつながった隣がホテル。なんて感じです。
扉もりあんと大して変わりなく、普通のアパルトマンの扉です。

勿論高級扉の、クルクル回る回転扉とか、重装備のホテル(リッツ、クリヨン、
ブリストル、プラザアテネ・・・・)も沢山ありますけれど。

                                                               かわなよしのり

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再びパリ VOL.16

◇「食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。」

懐かしいパリへ帰って来ちゃいました。
回りがとっても柔らかく見えて、優しく見えて・・・・。

「うん、僕はパリの方がやっぱ好きかも知れない。」

しばらく友人のところでお世話になって、まずは、NYに行く前に仕事をしていた小川さんを尋ね、今年もここで仕事をさせてほしいという御願いをしました。

既に去年の経験がありますから、すぐにOKの返事を頂き、これで、この夏の生活費の心配はなくなったのです。
次にに住むところを探し始めました。
パリのジュンク堂書店には、色々な情報が集まります。

そこで日本人のアパートの夏期休暇貸しがありました。
日本に帰国している間、家賃を負担して利用できるわけです。

僕は、なんて言っても観光客扱いですから、アパートを借りられません。
誰か別の人が借りているものを又借りしなくてはいけないわけです。

NYでまともな人間生活(笑)を送ってきたので、もうあの800円の
ホテル住まいは、ちょっと卒業したかったです。

せめてシャワーとキッチンがほしい。

電話してみたら、日本人女性でした。(ビックリ)

「女性の部屋なら、ちょっと無理だろうな?」
そう思ってたら、やはり既に予約済み。

でも、しばらく喋っていたら、ルームメイトのフランス人も帰省するので
よかったら彼の部屋を借りられるか聞いてくれるとのこと。

ふーん、フランス人と同棲してる日本人の女の子かぁ・・・・。
多いんだよね、このパターン。

いいなぁ。きっと日本から仕送りしてもらって、パリ生活をエンジョイね。
軟派なフランス男と。

・・・・「どこがいいんじゃい!」(おっさん言葉になっている(笑))

なんて言うかひがみ根性丸出しです。

やっぱり職人って、ひがむ人多いですよ。
女性と知り合う機会も少ないし、週末仕事が多いし、朝から深夜まで拘束されるでしょう。
給料安くて・・・・。先輩から嫌がらせを受けるし。
ほんといじめの典型的な世界だから。

確かに、それで残れる人じゃないと、それくらい料理が好きじゃないと、
生きて行かれないという、教えでもあったのかも知れないのですが・・・。

「いいことなぁ~い。」

ただ、僕は多摩美時代が多少あったし、今で言うフリーター(土建屋修行でしたが)期間があり、その時、高校時代のガールフレンドと雨の日に会っていたから(笑)まだ、よかったかも。

「よしくんと会うときはいつも雨なんだね・・・」

「おりゃ、土建屋だからな。晴れたら稼がなきゃ(笑)」

たわいもない笑い話・・・・。
雨の日にブルーのランクルにのって、海や山・・・。
「ねえ、軽井沢まで行かれるかな?」「うん大丈夫。行けるよ」
でも僕は、そんな日の終わりを感じられなかった。

閑話休題・・・・。

約束の日に電話したら部屋のことOKが出ました。
やった、これで秋まで仕事と住むところが確保できた。

で、気になったのは、彼女の部屋を借りる人・・・。
勿論女性でしょう?
聞いてみたら、何と男。それも料理人。(がっかりぃ(爆))

当時パリでウロウロしている日本人は、どっかしらでつながっているから、
名前を聞いてみたのです。

「井上さんて仰る方なのですが・・・」

以前、ベルギーに旅行に行ったとき声をかけられたとのこと。

「それってナンパでしょう?」って聞いたら、笑ってごまかされてしまいました。

「でも、僕その井上って知ってるよ」

電話の向こうで、「キャー!ウソー」ってかなりビックリしてるのです。

「だって、おりゃ違法滞在の料理人だよ・・・・」

ま、とりあえずミッシェル(同居人というか大家さんである)に会いに来てほしいと言われたので、彼女のアパルトマンまで行ってみました。

行ってみたらきちんと部屋が分かれていて、彼女と彼はそんな関係では全くなく。

入口のドアをあけると真正面に窓。そこはキッチンで小さいけれども、とても明るくて気持ちがいい。

左側のドアの向こうが彼女の部屋。
右側の突き当たりが、トイレとシャワー。
その左のドアをあけると、ミッシェルの部屋。

両方の部屋を見せてもらったけれど、やはり男性と女性の部屋は歴然と差がありました。ミッシェルという名前の響きから、綺麗な部屋を想像したのが間違え。
僕は殺伐とした、ちょっとほこりっぽい小さな部屋をながめてました。(笑)

喜びは半減ですが、それでも安心して生活できる場所が決まった事は嬉しい。

床にシングルのベットマット。それからちゃぶ台?。
彼は椅子の生活でなく、床の生活者らしい。まっ僕も嫌いじゃないから・・・。

基本的にパリのアパルトマンは、天井が高いのに、床にいるものだからもっと高く感じる。
これって、贅沢な気持ちにさせてくれます。
ベットの上にごろりと寝ころび天井をながめてました。
白い天井から目をゆっくりと右に落としていく。パリの古いアパルトマンにありがちな縦長の観音開き窓。ここは4階で向かいには公園がある。
この街に似合わない青い空と、白い雲。

僕は、3年前に戻ってシャルル・ド・ゴールでトランクをひいている。
つい半日前まで、友達や、家族に囲まれて、10の夢と、1つの不安しかなかったのに、今は独りぼっちで、10の不安と1つの夢をかかえて歩いている。早朝でまだ人影も少ない。何処へ行けばいいのだろう?

そして、初めての仕事場。星付きレストランの日々。2軒のキャフェ。NYの生活。とても3年と思えない。

うんと年をとったような気もするけれど・・。

ここの契約が終わる秋。
そろそろ日本へ帰ろうか?

唯一親友になった料理人は既に日本に帰ってしまった。
こっちで知り合った、エールフランスのフライトアテンダントと
結局結婚することになり、式は11月だから帰ってこないか?って

一応やりたいことは、やってしまったかな?
肩書きに全く興味がないから、有名レストランで働く気もないし・・
これ以上パリにいて、日本に帰れなくなったり、日本で仕事できなくなったり、そんな風になってしまうのも怖い気持ちがする。

僕がここで生きている間に、両親は年をとりました。

一昨年、父は定年退職したし。
叔母は乳ガンの手術をして、みんな大心配だったとのこと。

みんなが帰りを待ってるのだから、僕の生活するところは日本なんだ。

「さぁ、帰ろう・・・・。」
「きたねこの時が・・・。」
「知ってたよ。」

「だから、毎日が愛しかったのさ。」
                                                               Yoshinori.K

「愛される料理」

料理教室&Bistrot 代官山RIANT-りあん-川名克典
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さよならNY VOL.15

◇食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。

クリスマスも終わり、年が明けた「LaCite」は、なんだか間延びしたよう。
特に僕は、あの日で燃え尽きてたの。(笑)

いくらお客さんが入っても、暇としか思わないし。
自分も含めてみんなの動きが、ゆっくり見えるのは何故?

その頃、レストランサービスのバイトに、中国系の女の子が入ってきて、
その子が厨房に来ると、目が合うのです(笑)

結構、頻繁にクロスする。(ドキッ)
料理に夢中になって、長いこと忘れていたもの。忘れようとしていたもの・・・・。
でも、言葉も不自由だし、ずっとココにいるわけではないし、なんて言ったって
労働許可証のない人間ですから、透明人間みたいなもの。

悪い奴は、これを利用して悪さをするのでしょうが、そんな事出来る人間じゃないです。
メキシコ人のマリーオ?ホセ?違うな、忘れてしまった。が僕に話をしに来ました、

「彼女はYOSHIのこと好きだよ」・・・・。
「う、うん。何となく感じてるけれど」・・・。僕は奥手なんですぅ(笑)

しばらくしたら彼女は来なくなって、やめてしまったらしい。
なんだか、寂しいような、ホッしたような・・・・。

NYの女の子は、とても積極的です。
僕はよく、休日にセントラルパークでジョギングしていたのですが、
何度か声をかけられました。

ハーイ。元気?私は○×。あなたは日本人でしょう?
何をしにきたの?・・・・・・。こんな具合にね。

英語喋れたら良かったのにな。何度か思いました。(日本の英語教育って何?)
その当時は、フランス語なら、ちょっぴり会話できたので、
頭の中に先にフランス語がでるのです。

面倒ですね。語学が出来ないのは。フランス語から日本語へもどして、英語を探す。
まぁ、あの調子で、女の子たちに声をかけられ、きちんと会話が出来ていたら、
僕は日本に帰ってこなかったかもしれません(キッパリ)(爆)

だんだん春に向かって、温かくなります。
1日1日、大家さんとの賃貸契約が終わりに近づきます。
よく歩きました。87丁目からダウンタウンまで、SOHOまで、トライベッカへ
リトルイタリー、そして逆に125丁目まで、お昼間にね。

そうそう、一度、佐藤君と深夜に地下鉄に乗って帰るとき、特急に乗ったのです。
間違えて。 あれ、82丁目通り過ぎたよ。止まらない。ウソ~。125丁目だ。
二人ピッタリと身体を寄せ合って、監視カメラの回る白線内で緊張してました。
たった一人だけ、白人がいて、でも、彼がいてくれて本当に心強かったです。

もう一つ、彼が早番の時、深夜僕一人で帰りました。
彼は僕より早番が多かったです。僕は完全に夕方から深夜までの契約です。
慣れとは恐ろしいものです。

一人だとバスに乗って帰ります。
NYのど真ん中、ロックフェラーセンターから125丁目まで、ブロードウエイを
北上するバスなのですが・・・。
この時間にバスに乗っているのは、年配の黒人だけなのです。
まあ、いわゆる真面目な労働者たちばかりです。お疲れ気味で皆さん肩を落としてます。

僕も、お疲れ気味です。
これが失敗。

なんと寝てしまったのです。慣れとは恐ろしいものです。それも僕一人です。

気が付いたら、なんだか暗い通りを北上しています。
きょろきょろしますが暗すぎてどこか、全くわかりません。何たって生まれてはじめて通る道なのですから、わからなくて当然です。
ただ、まだ走っていると言うことは、125丁目には着いてないのです。

基本的にバスの運転手は喋りません。
聞きたくても、聞けないし、頭の中は半分パニック。
自分としてはかなり早い演算処理をしたと思います。

チャイムを鳴らす綱を引き(ボタンじゃなくてロープが前から後ろまで引いてある)
そうすると間もなく止まりました。

おりるのは僕だけです。のっているのは数名のみ。外は真っ暗。
「やばい」
これがNYで最大の危険状態だったのは、目に見えてます。
バス停をおりて、バスが去りました。
「やっぱ、やばい」・・・本当に一人です。

ふと斜め前の高層アパートの影に何かが動いてます。
すごいですね、アドレナリンが猫のように身体を駆けめぐっていたと思います。
身体が、フワーってなにかを感じるのです。
空気の動きみたいなの。真っ暗で目では見えないのです。

しばらく目をこらしていたら、見えてきました。
小さな白いものが動くのです。それも一つでなく。

「歯」

ニヤニヤ笑っている。黒人たちが黒い革ジャンきて、話しをしているのです。
どうします?
別に悪い人とは限らないのですが、この状況です。ミッドタウンではありません。
バス停の数字は。111丁目。
僕のアパートは87丁目で、100丁目より上には行かない方が良いと
言われていたのにです。

まっすぐ南に向かって走り始めました。
何も見ず、ただ南だけをまっすぐ見て。
普段スポーツジムに行っていて良かったぁ。

走りに走って、いつしか見覚えのある通り。
GAPが見えた。ここまで来たら、進路を西に変えても大丈夫。
左に曲がってセントラルパークの手前まで、
アパートについた。クタクタ・・。

ある日、体調を崩したのです。一人アパートで寝てました。

パリの生活でもこんな事はあったのですが、
NYは、毎日のテンションが高かったのか、とにかく時間が早いからか、
一人だけ世界に取り残された様な気がするのです。

「寂しい」・・・その時、思いました。

NYは癒される所でなく、目的を持ちただひたすら走るところ。
走るのをやめたなら、どこかへ帰る所。
NYは仕事に行くところで、リラックスしにいってもその真価は半分もわからないかも
しれない。
そんな風にベットの中で思ってました。
別に日本が懐かしいとか思わなかったです。
でも、パリのあの安ホテルが懐かしいなんて・・・。

セーヌ河岸。サン・ルイ島。サンジェルマン・デ・プレ。レ・アル。オデオン
サン・ミッシェル。花屋。美容室。ケンゾー。ポンヌフ。オペラ座。
僕の脳裏に焼き付いたパリのスナップショットが紙芝居の様に切り替わるのです。
やっぱり美しい街、巴里。

そろそろ、NYはタイムアウト。
オレンジ色のシルクジャケットも買った。ナイキのスニーカーも手に入れた。
リーバイスも3本、そして、何カ国もの人間に、僕の祖母の味を食べさせた。

今祖母は、ほぼ寝たきりの96才。でも、知らぬ間に彼女の味は、世界の人々に食べて
もらえた訳。

佐藤君は、ナイアガラ観光して、パリに行きたいという。
僕は・・・・。まっすぐ「帰ろう」。

彼は、先にNYを旅立ちました。
僕は、大家さんが帰ってこられたので、あと1日ホテル住まい。
かなと思ったら、ブラジル人のセルジョが泊まりに来いと言う。

ホテルといっても僕が探すのは、3000円以下だから、
あまり安全ではない訳で、これにはとても嬉しかった。
一晩、英語とフランス語と日本語のチャンポンでいつしか朝日が昇ってきた。

JFKへ一人で向かい、搭乗手続きを済ませる。この位の英語は楽になっていたので、
「世界中のレストランで仕事もいいかもぉ」(笑)なぁんて、お気軽にふと思ってたの。
飛行機が滑走路を走りはじめ、グンとショックがきて機体が持ち上がった瞬間。

ん?何故だろう・・・・。

斜めのまま小さくなっていく「あの街」を見ていたらに、急に涙がこぼれ落ちた。
そして次の瞬間、僕の視界に、にじんでいるけれど着陸態勢に入ったボーイング。

「今日も、夢を追いかけて誰かこの街にやってくる。」
Yoshinori.K

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愛される料理のNY VOL.14

◇食べ物が身体を作る。何を食べるかで、身体が変わる。

「土にまみれたニンジンを通して宇宙の仕組みが、全て感じ取れたのです。そうだ、全てが回っているんだ」=赤峰勝人=「ニンジンから宇宙へ」

NYのフレンチレストラン「La Cite」での仕事が始まります。
マンハッタン、ロックフェラーセンターのど真ん中、ライフ&タイム社の大きな看板が目の前にある超高層ビルの1Fにその店はありました。
席数は、200~300。RestaurantとCafeの融合店舗です。

キッチンは・・・・・・・。ビックリしました。
キャッチボールができるのです。(あ、はっ!)

パティシエは、別にあって、前菜、グリエ、魚、煮込み、ソース・・・・と横一列に並ぶのです。だから10mくらい?

それぞれの部門に、コックが2名ずつ(暇な時は一人とか、隣も掛け持ちとか)それぞれに、専用の調理台冷蔵庫(コールドテーブルと言うもの。テーブルの大きさの冷蔵庫で天板が料理台になります)専用のコンロ、専用のオーブン、そして必要な場所には、蒸し器、フライヤー・・・・。

キッチンの真ん中には、そうだな3畳くらいの部屋、これがつけ合わせとか小物用の冷蔵庫。
その部屋を取り囲むように、テーブルがコの字を描いて部屋の外壁から飛び出ている。そのテーブルの上には、あたかも調理器具のショールームよろしくありとあらゆる機械が。

そして、更に野菜庫、肉庫、魚庫と言うように冷蔵庫部屋が別にあるのです。ホテルでなく、街のただ1軒のレストランです。「あっ・・・・唖然。呆然」

料理人は2交替。午前(8:00~16:00)の部、午後(16:00~24:00)の部
それが終わると、若いスペイン系の子達が夜通し掃除をするのです。
そう、料理人は料理を作るだけ。皿どころか鍋すら洗いません。

ある時僕が、自分で使うボールを洗ってたら、chefに怒られました。
「YOSHI、洗い場に洗わせろ」・・・・・・・・

日本人は、フランスでもそうですが、やっぱり魚部門に自然と配属されます。
日本から着たばかりの佐藤君は、若かったのとフランス経験がなかったせいか前菜に配属されました。

いやぁ。とにかくボリュームがすごい。
肉の厚さったら、「これ食べられるの?」「3人前でしょう?」
肉だけじゃないのです。魚も。
毎日キングサーモンのヴァプール(蒸し煮)が山ほどでるのですが・・・。
一人200g+。
日本のレストランの2人前を束ねて竹串で止めて丸くして蒸すのです。

なんだか知らないけれど、ヘルシー志向で、これを蒸しただけの注文が
多いんですね。
ソース?勿論いろいろできるのですが、何もつけるなって注文が多いのです。

日本人は魚を食べるけれど、こんな食べ方しないし、飽きるでしょう?
もしかして、ケチャップやマスタードで食べてるのかな?(笑)

アイダホポテトもすごかったです。
作業靴みたいに大きいのですから。
縦長に1㎝の厚みでスライスすると、何というか楕円の陶器のまな板皿
みたいです。(爆)

何と言っても素材が全て大きいので、火のはいる時間がかかるのです。
それでもオーブンはいつも、灼熱。
温度を下げようものなら、短時間で火が入らないと言ってブーイングものです。
だから、魚をオーブントレイに乗せて、中に入れると、あれっ、下が焦げてるぅ・・・。

そこで、あのまな板皿(笑)を沢山作っておき、魚の下にかませてオーブンに入れました。

また、おもしろいのが、「ばかでかい」チップス。
ただでさえでかいアイダホポテトをスライスして4、5枚少しずつ重ねて張り付け大きなお皿ぐらいのチップスを作るのです。(笑)

これに、僕ははまってしまって、今までにだれも作ったことのない様な、最高に綺麗な円盤状のチップスを沢山、沢山作りました。
だから、時々マネージャーが「YOSHI~。御願いもう作らないで」って(爆)

すぐ近くがカーネギーホール、まぁ、回りはミュージカルだらけですから
ヒットしている舞台がある日の19時前後は閑散としてます。
でも、21時を過ぎると、舞台を見終わった人々で、てんやわんやの大騒ぎ。

ほんとにお祭りの様な毎日でした。
料理は、スピード第一。でも、冷凍食品や加工品が一切ないのです。
これは、感心しました。
だしは勿論のこと、ソーセージ、ハム、スモークサーモン、パテ、テリーヌ・・・・・。全部作ってましたよ。

日本人なら、しかめっ面して作るものも、ロックビートで作ってるのです。

彼らは本当に野球帽が大好き。
お気に入りのチームのもあれば(NYヤンキースだけですが)店の帽子もある。

僕は日本に帰ったら、キッチンで野球帽をかぶろうと思いました。
(最近ザラにいますよね?でも1990年初頭日本ではなかったです)

パティシエの女の子達は、ポニーテールにして、帽子の後ろの穴
(大きさを調節するバンドのところ)から出していて、なかなかキュートでした。

僕は当時、髪の毛が肩まであって、ポニーテールにしていたのです。(ええっ)
いつも適当に自分で切ってましたが、佐藤君がなかなかお洒落で、ある時日本人の美容師さんがいる美容室を発見してきて、僕は、彼女にカーリーにしてもらったのです。(えええっ×3)

高校生の頃ちょっとやっていて。でも料理人はそんなの出来ないでしょう。ところが、この街は何でもOKなんです。
勿論調理中は帽子かぶります。またはビッチリとゴムでひっつります。
つい、おもしろくなってかけてしまったのです。

その頃、その店のオーナーが持っているスポーツジムに、月1万円ほどで通わせてもらいました。
タイムズスクエアの時計の横にあるホテルの7階?(かな?)
小さいけれどプールもマシンもサウナも揃っていて、毎日通いました。

毎日行くものですから、言葉が今一でもスタッフと友達になり、
そのスタッフの一人。美人ディレクターに
「私カーリー大好きと頬ずりされてしまい、髪をかき上げられたのです」(あっ、汗)

僕の身体は、この当時最高に元気だったと思います。
やはり、運動はできるなら毎日すべきです。(最近全くしてない。ダメなchefです)

ある日、店は超満席になりました。
空いても空いても、お客さんが入ってくる。
何でもすごく有名な舞台が、終わったから、この店の回りにお客さんがうじょうじょいるとのこと。(キャッツかオペラ座の怪人か?)

すごいオーダーの数です。
僕は、かなり手が早かったので殆ど一人でこなしてましたが、これはきつかった。
勿論、サブが横にいつの間にかいましたが、帆立のムニエルをカリっと焼けない。
やってくれるのは嬉しいけれど、僕の職人根性が黙ってないのです。
コンロには空きスペースがないので、灼熱のオーブンへフライパンを突っ込み
加熱して、半煮えになった帆立を焼き上げました。

こんな風に真剣に作るのですから、ギャルソン達は、注目します。
アメリカ人相手に、日本人の僕が怒鳴ってるのです。
ひとつ間違えたら、総スカンを食らう状況でしたが、でてくる料理をみると納得してくれるのです。

彼らは、完全にチップで生きているのです。
料理の出来は、彼らの日当に一気に響くのです。
YOSHIの作る魚料理は、間違えがない。失敗しない。客受けがよい。
僕の作る手元に、10名以上いるギャルソンの目が集中していたのでしょう。

オーダーが、ローストや煮込みから魚に一斉集中です。
こんな激しいオーダーは、後にも先にもこの時だけでした。
コールドテーブルの向こう側。
ふと見ると、ペリエの小瓶が1つ、また1つ、まるでボーリングのピンのように並び始めました。

料理人は、バドワイザーを自由に飲めるのですが、僕が酒を飲まない
(飲めないが正しい)(笑)ことを、いつの間にかみんなしっていて
カウンターから「YOSHIに持っていく」と言って持ってきてたのです。

汗でぐちゃぐちゃになっているときに、胸が熱くなってきました。
普段、滅多にしゃべることのないギャルソン達ですよ。
自分のチップの為とはいえ、それよりもふえていくペリエに、感激したのです。

「死にものぐるいは、誰にでも分かる。」そんな言葉が頭をかすめたのです。

最後のオーダーを出し終えた後、僕は意識がもうろうとしてました。
身体は小刻みに震え、マラソンした後の様な感じだったのでしょう。
友人のブラジル人が、僕の震えをみてビックリしてました。
ジムに通っていたからこなせたオーダー数だと今でも思います。
そうでなければ、途中で息が上がり、集中力がとぎれ失敗料理や大けがをしていたと思います。
                                                          Yoshinori.K

料理教室&Bistrot代官山RIANT-りあん-

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もう一軒のCafe in Paris VOL.13

◇「愛される料理を覚えて、自分と回りを幸せに!」

「高く昇ろうと思うなら自分の足を使うことだ。高い所は他人によって  運ばれてはならない」                

                        =ニーチェ=

ミッシェル・ショーダンでの無給生活で、お金を使い果たしてしまった僕は、ちょっと焦ってきました。

彼のところにいる間は、毎日が勉強で、無給でも不安が生まれなかったのですが、辞めたとたん、貯金がない、仕事がないの現実が目の前に壁となって現れたのです。

・・・今思います、お金がなくても目的があるとあんまり不安を感じないけれど、目的がないと不安ってすぐ来るのです。・・・・・
そして半年前、断られ続けたので、少し気後れしていた僕は、なかなか仕事を見つけるために店を尋ねる気になれなかったのです。

と、ふと、友人が以前紹介してくれた、オペラ近くのキャフェを思い出しました。
そこのシェフ小川さんは日本人で、長くパリで暮らしているのです。
お子さんも、奥様もいらっしゃり、僕からみると普通の人間の暮らしをしている。(笑)

変?ですか?

観光ヴィザで入国し、なんというか、異邦人で透明人間のように暮らしている僕にとって、まぶしい存在だったのです。すごくまぶしかった。

大手を振って歩ける。
車を持ってる。(一緒に仕事して、初めて知ったのですが)
自宅がある。
奥さんがいる。子供がいる。・・・・・・超・人間らしい。

自分の立場を思うとちょっと切なかったです。・・・ちょっとだけね。

数多くの日本人料理人は、日本から来たとき、また帰るときに彼の元に立ち寄るのです。

実は、以前お話しした、僕がくじけたキャフェのオーナーは、この店である時期修行していたそうです。
そして、あのキャフェで仕事を始めたある日、オーナーが僕とのコミュニケーションに不安だったのか、いつの間にか小川さんへ電話して、僕と替わり色々説明を受けた事がありました。

そこで、小川さんを尋ねてみることにしたのです。
僕は、あまり多くの料理人とつき合わなかったので、他にどうしてよいかわからなかったと言うのが本当のところです。

そうしたら、丁度これから夏に向かって、コックさんが一人ずつ、バカンスを1ケ月ずつとるので、4ヶ月間くらい人が足りないとのことです。

もう胸は張り裂けそうに嬉しくなってます。
勿論、お給料ももらえますから、これでしばらく、安心して暮らせる訳です。
                           
約束の日。キッチンに入って、だいたいの流れを聞いて、仕事を始める。
最初から言われてはいたのですが、戦場のように忙しい店です。
(よく調理場は戦場にたとえられるのですが・・・・・)
何も言う暇もない。ランチタイムはただひたすら、盛り付けて出すのみ。
オーダーの号令。皿の音、鍋がふれあう。身体がぶつかる。包丁やフォークがまな板の上を飛び跳ねる。

この瞬間、料理を作るというのは、潜在意識でやっているようなものです。(爆)

実は、この半年後に、NYへ行くのですが、NYの店はここより忙しかったのです。もうメチャクチャ(爆)ですから、ここで4ケ月、スピードにもまれて本当によかったのです。

12:00~14:00まで無呼吸感覚でびっしりオーダーをこなします。(笑)

キャフェですが、使っている材料、出される料理は、一流店と何ら変わらないどころか、それ以上のもばかり。(トリュッフとキャビアが登場しないだけ)ですから近くのお金回りのよいビジネスマンは、毎日ここに来るのです。

ランチ専門ですから、ステーキフリット(牛肉のステーキとフライドポテトの一皿)と、冷前菜をのぞき、全て日替わりです。
その日替わりも3種類もあるのですから、とにかく忙しい。
何も考えないうちに、時間が過ぎ去るのです。

毎日変わる料理は、なんて言うか、あらゆるレストランのいいとこ取り、
ベスト版みたいな、ワクワクする料理ばかりです。
シェフがとても勉強家なので、どんどん新しい料理が出るのです。

いくら客数が多くても、いくら忙しくても、僕は本当に楽しかったです。
「やっぱり料理人なんだなぁ。」

なんて言うか水を得た魚のよう。(これって本当は他人に言ってもらう言葉でしょう?)自分で、自分がそんな風に思えたのです。

一人で勝手に何もかも背負い込んで、自分を檻の中に入れてしまった去年。勉強のため、楽しかったけれど、今までと違う素材(チョコレート)にある意味翻弄された半年前。

自分の体に馴染んだ、料理を作るという動きを、自分一人ではなく、チームで作っているそんな嬉しさ、楽しさ、心の軽さ・・・。

この心の軽さは、僕に最高の悦びをくれました。そして、素直に仕事が楽しかったのです。
アッという間に、1ケ月、2ケ月・・・約束の期限が消化されてゆく。

夏が終わると、スタッフも全員戻ってきます。
さぁ、どうしようか?
ミッシェル・ショーダンを辞めた後は、無一文に等しかったから焦る気持ちが、底知れぬ恐怖となり僕の心をおそいましたが、今度は違います。

4ケ月びっしり稼ぐのです。料理人は食事代があまりかからなくてすみますし、僕は酒もタバコも、賭け事も、そして●●●●●●(笑)もしませんから、貯まります。

それに、当時僕が住んでいたホテルは、1泊800円位なのですから!

実は、小川さんを紹介してくれた友人が半年前からNYのフレンチで仕事をしてました。
フランスの修行を終えて、NY経由で日本に帰る。と言う事でした。
その彼から「川名さん、僕が日本へ帰るときに替わりにNYで仕事しますか?」って話しがあったのです。

人生ってわからないですね。
日本を発つときにNYの「ニ」の字も、思いもしなかったのにです。
だって、フレンチの料理人は、普通NYへ行きませんって。

でもその時、「NY」と言う音の響きに食指が動いたのです。
きっと、パリである程度暮らしたからでしょう。「行く、行く、行くぅ」・・・・

ある程度貯金をして、料理の腕とスピードに磨きがかかった僕は、
根拠のない自信を持ってました。(爆)
猛然とパリを後に、NYへ行く準備を始めたのです。
電話して、日にちを決めて、アパートを探してもらって・・・・。

更に、日本から彼の後輩の佐藤君が,NY入りすることになりました。
佐藤君は、NYの仕事が終わったらフランスへ行きたいとのこと。
僕がパリに戻る頃なら、色々手伝えるだろうという、段取りが出来たのです。

こういうのって日本から、旅行とかで行くとなると結構大騒ぎじゃないですか?
いつ?住むところは?どうして暮らすの?どこで落ち合うの?
どうやってフランスへ戻るの?・・・

でもね、何故だか電話で、数分の会話で終わってしまうのです。
今みたいに、携帯もFAXもなく。ましてやE-mailなんてハリウッド映画の話しでしょう?
連絡手段が非常に不便なのにすぐ決まる。(逆かな、不便だから確実にすぐ決まる?)
もう、回り始めたメリーゴーランド。全てが音を立てて動き始めました。

人生でこんなメリーゴーランドに乗ることって、ない?
今思うと、あんな面倒くさいこと、不安に思うこと、わからないことを
全て何気なくこなしていたものだと、不思議に思うのです。
英語だって、フランス語だって、“まとも”には(笑)出来ないのです。
                              
NYの仕事は、年末にむけて、そして初夏まで。
クリスマスシーズンのかき入れ時のスタッフです。
英語大丈夫かなぁ。と言う不安はありましたが、フランス料理屋です。
それにシェフはフランス人なので、会話にはフランス語が使えると言うことでした。

その当時の僕は、既に大学受験英語の後全くご無沙汰していた英語より、フランス語の方がまだましだったので、これにはちょっぴり安心しました。(ホッ)

パリの旅行代理店で、パリ-NYの格安チケットを見つけて、
(これは1年オープンで買ったと思います)
いざ出発。荷物はトランク1つですから、日にちが決まれば早いです。

「シャルル・ド・ゴール」から「ジョン・F・ケネディ」へ・・・・。

パリの生活からNYの生活へ。

生きて帰れるのかなぁ?(笑)

全く先が見えない明日へ出発してしまいました。                
                                                          Yoshinori.K
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パリのショコラチエ VOL.12

◇料理を覚えて、自分と回りをしあわせに! (^ー^)v

「気休めとは、実現すると期待するだけで何もせずに           ただ待っていること」          =ジョー・タイ=

キャフェを飛び出すようにやめた僕は・・・・。
疲れ切ってました。
この頃、母に書いた手紙は、悩んでいる事ばかり書いていたそうです。

やめるときの、自分の心は、自分が一番知っているのです。
後ろめたさ、うまく立ち回れなかった力量のなさ。思い上がり。
しばらく、何もしたくない状態が続いたのです。

パリは、こんな時にとても優しい。
街の中はどこを歩いても、絵はがきから出てきたようだし、
商業区域なのに、合理的な冷たさを感じない。
セーヌの脇を散歩すれば、まるで1冊の本の中に自分がいるかのような気持ちになれるのです。

映画を見て、散歩して、また映画を見て、散歩して・・・・。
僕は、もう観光でパリには来られない。
日本に帰るけれど、次にパリに来たら、きっとそのまま暮らしてしまうだろう。
何故だかわからないけれど、この街がとても好きだ。

と、そんな風に思いながら、1ケ月?2ケ月?くらいたっただろうか。
そろそろ、仕事を探さなくては・・・・。

既に僕は、1年以上パリで働き、それはまるで、10年暮らしたかのような、そう濃縮したトマトペーストのような毎日だったのです。
そんな自分には、当時2つ星だったジャック・カーニャを訪ねた、あの純粋さがなくなっていました。

精神は澱み、素直に働きたいと言う一途な気持ちも消え失せ、それが顔や、気配にでているのでしょう。何軒訪ねても、断られるのです。

これだけ出来る。あれも出来る。それも出来る。・・・・・

1年前の僕に見せたら、涎が出そうです。
相手の言うことを理解し、きちんとフランス語で答え、且つ自分の出来る仕事を理路整然と伝えアピールしている。
給料は、同レベルのフランス人職人のほぼ半分ですむのですから、お買い得なはずです。

でも、4軒、全て断られたのです。
全て、労働許可証がない事が理由なのですが、ない人間が働いている、いた事があるお店ばかりなのです。

ちょっと投げやりになりました。
焦る気持ちもあったけれど、どうしようもない。

そんなとき、冬から春に向けて、一番忙しいチョコレート屋さんの仕事が来ました。
同じホテルで暮らしていた、パティシエから「チョコレート屋で働く?」
「勿論スタジエ扱いだけれど・・・・」

「エッ!?」心臓がドキドキ高鳴るのがわかりました。
給料はないとしても、、、やめたキャフェで貯めたお金で半年くらい生活できそうですし、4軒たて続けに断わられていた僕に、選択の余地はなかったのです。
それに、チョコレートは、未知の世界。知りたくてもなかなか独学では、わからないことが多すぎて、勉強したいと思っていた分野でした。

彼からゆっくり話しを聞いて、ビックリしたのが、そのチョコレート屋の店主がチョコレート業界では、知らない人のいない、素晴らしい職人だと言うことがわかったからです。

その店主とは、「ミッシェル・ショーダン」
ルノートルのチョコレート部門を超一流にして、その後、世界一と言われたチョコレートブティック「ラ・メゾンドショコラ」をロバート・ランクスと二人三脚で作ったその人。
そう、ソニーで言えば、「井深 大」氏かなぁ。?

その彼が、パリ7区で、本当に小さな、彼のチョコレートが大好きな人が買いに来るブティックを開いている。そこでスタジエをしながら、半年働かないかとのこと。

お菓子屋さんなら誰でも飛びつくような話しが、料理人の僕に来たのです。確か1989年の冬でした。

全くのチョコレート初心者が、パリの大御所の元へ入ったのです。
料理屋で大御所と言えば、当時でしたらやはり、ジョエル・ロビッションのジャマンとか勿論タイユバンですから、それと同じように思って、緊張バリバリで、初日の門をたたきました。

でも、あまりにもお店が小さかった。丁度りあん程?もうちょっと大きいかな?
ミッシェル・ショーダン本人と、フランス人のパティシエ。そして販売員が一人。
あっ、日本人の女性パティシエが一人、やっぱりスタジエで来てました。

みんな私服で、チョコレート色のエプロンをしていて、とてもあったかい雰囲気でした。
僕は、初日から「息が出来る」職場に、とても好感を持ちました。

そして、毎日、目の前でおきる奇跡。チョコレートの魔術。
朝から、晩まで、香ばしいカカオの香りに包まれて過ごしたのです。

料理屋と違って、毎日規則正しく計画的にチョコレートを作る。
(料理屋は、仕込みはありますが、実質注文が入ってからドタバタ作り始めますから)
静寂なアトリエにカカオの「香り」が、僕の疲れた心を癒す「時間」と共に流れてました。
僕は、この職場がとても好きになったのです。。

少しずつ、チョコレートにさわる時間が増えました。
と、同時に唯一のフランス人パティシエとも、親しくなりました。
ブティックで働いている販売員は、彼の彼女だと言うことでした。

レストランと違って、賄いの食事は外で食べました。
アトリエに、冷蔵庫も鍋もガス台もあるのですが、調理が出来ません。
調理の匂いが、チョコレートにうつるからです。

チョコレート作りは、僕にとってお茶美(お茶の水美術学院)や、多摩美や陶芸場を思い出させたのです。
素材がチョコレートと言うだけで、型に入れたり、手で丸めたり、艶がけしたり・・・。
なんだかチョコレート職人になりたい気持ちにがムクムクおきたのです。

クリスマスの贈答用チョコレートの仕込みに毎日追われ、チョコレートケーキも作り始めました。小麦粉の入らないチョコレートケーキ。ブッシュドノエル。
りあんで、12年前にクリスマス講座で作ったブッシュドノエルは、ショーダンのテクニックが入ってました。

年が明けて、チョコレートの仕込みにも慣れ始め、毎日が規則正しく流れる。
一人ではない。ショーダンもパティシエのピエールもいるので、以前の仕事とは全く違って、何日通っても楽しいのです。とは言え、約束の春が日一日と近づきます。

そんな中、日本から、ミッシェル・ショーダン・ジャポンのオファーが入りました。
僕は、その日本の会社の事を聞かれたり、日本でシェフをやらないかと訪ねられたり。ちょっと、自分の人生が変わりそうな気配を感じたのですが、結局は実現しませんでした。

そして、「yoshiは、私が雇う最後の日本人スタジエになるだろう。これからは、M・C・J(ミッシェル・ショーダン・ジャポン)の社員しか雇えない。」と言う話しをを告げられたのです。

ついに3月、復活祭の卵のシーズンがやって来てました。
毎日毎日、卵型のチョコレートを沢山作り、お祭りのような、あわただしい日々が僕の心を通り過ぎました。
そして復活祭が終わりを告げ、後かたずけも一段落ついた日に、僕のミッシェル・ショーダンでのチョコレート修行が最終日を迎えたのです。

今まで未知の世界と感じていたチョコレートを身近に感じることができるようになり、何より、ミッシェル・ショーダンと知り合え、通じあうことが出来た。
それがあの日、逃げるようにキャフェをやめた僕の心に、舞い降りてきたものでした。

それは、何を意味するのだろう。
僕は自分で自分を、おとしいれて、自分を裏切ったのに、結果として、大きなものが残されたのです。

人はやはり、動く時期と言うものがあると思うのです。
それは、誰かが指導するものでも、アドバイスするものでもなく、自らが感じ、考え、そして動くのだなと、思いました。
目をつぶって、自分の声を聞くことの大切さ。そしてその声に従う素直さと責任。

今の自分は結局自分が作っていると、そんな事を考えながら、もう通うこともない、ミッシェル・ショーダンから、アンバリット(地下鉄の駅)まで、歩いたのです。
                                                                 Yoshinori.K

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パリのキャフェ VOL.11

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

全ての天使達よ 
これほど努力し希望にすがっても生き抜く術が見つからない
けれどもし、重荷を捨て去ることが出来たとしても
苦しみのない人生を選ぶだろうか
苦しみの後にこそ光はより美しく輝き地上を照らし甘美なる実りを授けてくれる
全ての天使達よ 生き抜く力を与えて、私を見捨てないで
                                  =「Calling All Angels」より=

実は、これから書く内容は、昨年10月に一度書きました。教室のRIANTマガジン「シェフの独り言」とこの「愛される料理」の時間がずれて先走りました。何故ならあの夜、友人と電話で話した後に、急に思い出されて一気に書いてUPしてしまったからです。だから少し重複になります。

ごめんなさい。

確か、2つ星をやめた1989年の春から秋ぐらいまで、僕は、パリ郊外の小さな個人経営のキャフェ・レストランで働きました。

お金がもらえたからです。
あの当時、フランスの星付きレストランでスタジエ(無給、研修生扱い)したり、ささやかでも給料をもらって働いていた日本人はかなりいたと思います。
ただ、街場のキャフェで普通に働いていた日本人は、殆どいませんでした。

理由は二つ。
・労働許可証が無いため、普通の経営者は雇わない。(→働ける店は無い)
・日本に帰ってからの肩書きにならない。

でも、僕は、(友人が紹介してくれたのですが)、最高に嬉しかったです。
生活が安定するし、キャフェを使う一般的なフランス人と四六時中過ごせるのです。
ここで働いた半年は、殆ど日本語を使わない毎日でした。(笑)
(日本語を使っても誰も分からない(爆)ですし、ホテルに帰っても、夕方ですから、殆どの日本人料理人は仕事時間です。またあえて日本人と過ごすことも考えなかったのですが・・・)

そのキャフェでの料理人は、僕一人ですからやっぱりシェフって呼ばれます。
それまでの能力をフルに使う毎日です。一人ですから、段取りをよほどよくしておかないと、パニックになったら、殆ど修復不可能状態になります。

朝から晩まで(ディナーはないのですが、翌日の仕込みとか、作り置きできるお菓子とか)一人でただひたすらに作り続けるのです。
料理は勿論のこと、在庫整理、食材発注、皿洗い、キッチン掃除、床磨きなんかもです。

3つ星シェフ達の料理本を持っていって、オーナーに料理写真を見せ、サラマンドル(上火だけのオーブンのようなもの)かガスバーナーがあると、こんな料理が出来るよ。とか、スティックミキサーがあると、こんなソースが作れるんだけれど、等々
時々言ってみました。

そうすると、そうかそうかと買ってくる。
この時、はじめてどうすれば道具をそろえてもらえるか知りました。(笑)

毎日が夢のように過ぎていく。・・・・・愛しい時間。
BONJOUR(ボンジュール)から始まって、A DEMAIN(ア・ドマン;また明日)まで。

フランス人の中でたった一人の日本人。
自分でココにいることが自然に思えて、少しパリジャンになった様な気がして・・・・。

それが、とても不思議だったのです。

オーナーは時々、全く知らないレシピを持ってきて、これを作ってくれと言いました。
へぇーと思ったのは、塩だらをもどして、ジャガ芋のピュレと重ねるブランダード。
それから、パエリヤも、土地柄により内容が違うことを、はじめて知りました。

クロタンと言う山羊の小さなチーズを香草の入ったオリーブオイルに漬け込んでからパンにのせてトーストしてサラダにのせたものや、名前だけは知っていたけど、食べたことのなかったクロック・ムッシュー・・・・。

ちょっと手を抜いて、勉強しなかったものが結構出てきて、おもしろかったのです。

オーナーが黙っていても、旨いモノを作るのだから、だんだんと信用されました。
彼は、友人や常連客をキッチンに招いては、僕を紹介するようになったのです。
僕もその時は、半年後に辞めることなど思ってもいませんから、これから友達づきあいが始まるかもなぁ。等と思ってニコニコしながら握手してました。

そうして、今思うと夢の様な、本当に夢だった日々が過ぎ去ったのです。

4ヶ月目が過ぎる頃から、僕の心に変化が生まれました。
毎日の仕事が作業となったのです。
一人で追われる仕事が、だんだん辛く感じるようになり、仕事をパターン化していったのです。ある程度仕込んでおいて、機械的に出すだけにする。

この毎日は、僕にダメージを与えました。と言うか、自分を「檻」に入れたのです。
今、考えると、自分で檻に入ったのが、ハッキリと解るのですが、
その時はもう、頭も心もかなり乱れてきてたので、解りませんでした。
いや、無理にでも「解ろうとしなかった」というのが正しい。

毎日3時になると、ランチの皿とシルバーが山となっているのです。
2時間ビッチリ集中して作って、その後の皿洗い。
「メルド(クソ)!全部プーベル(ごみ箱)へ突っ込みたい。」

最初のうちは、いいクールダウンだなんて思っていたのが、どうしてこうも変わるのだろう。

洗い物が憂鬱でたまらない。。

「俺はココで何やってるんだ!」

「やめたほうが自分のためだ!」

「皿洗いするためにフランスくんだりまで来たのか!」

「時間の浪費だ!」

「こんな料理を作るために、料理人になったのではない!」

もっともらしい言葉です。
自分で自分をだましたのです。 だましたと思えない綺麗な言い訳を作って・・・・・。

「自己欺瞞」

それまで、オーナーが市場から荷物を持って帰ってくると、何が来ているのだろうと、楽しみながら、冷蔵庫に整理していたのに・・・・。 いつまでも片づけない。
オーナーが「片づけないのか?」と言っても忙しそうにして無視する。

仕方なく、彼が片づける。

僕が、冷蔵庫に食材を取りに行くと、適当に詰め込まれた、肉や野菜やクリーム。
それを見て、入れ方が悪いと、いらつき、いきなりつかんでぶん投げる。
たった半年で、僕は、天国から地獄へころがり落ちたのです。自分で自分を落としてしまった。

オーナーお墨付きの、良い料理人から、悪い料理人へ・・・。
自分でも訳が分からないのではないのです。
すべて知っているのです。
でも、全部店と仕事とオーナーのせいにした。

この店が悪く、仕事が、オーナーが悪い。

そして、胃痛が僕を襲う。
常に胃薬を飲み続けたら、オーナーが気を使って          フランス人のヘルプをつけてくれたのです。
そんな状態の僕を優しく包み込んだオーナー。            なのに、僕は・・・・・。

ヘルプは、年上、きっと流れのコック。
はたしてフランスにそういう人がいるのか知りませんでしたが、
そんな匂いがしていました。

一週間ほど、一緒に仕事をして、僕は今がチャンスだと思い、いきなり来週辞めるとオーナーに切り出したのです。
彼はかなりビックリして、何か言おうとしてましたが、それを聞きたくなくて、「来週でおしまいだ」と言うとすぐに店から出て帰ったのです。

その日から、辞める日までは、いつも入れ替わり立ち替わりキッチンに来ていた、オーナーの友人達は、誰も入ってきませんでした。
夕方僕が帰るときにカウンターでエスプレッソを飲んで喋っているのですが、僕が後ろを通ると、みんな黙ります。

疲れ切りました。自分で自分をどうしようもない「檻」へいれ更に
「どつぼ」へ落としたのです。

全てを自分を取り巻く環境のせいにした。ずっと忘れない、忘れられない思い出です。

いつか、訪ねてみたいけれど、笑って挨拶できないのが辛い。
僕の心が違ったなら、きっと友達でいた常連達。
もしも訪ねたとしても、通りの向こう側から眺めている僕が・・・・・。

                                Yoshinori.K

「愛される料理」を作る料理教室とビストロhttp://homepage2.nifty.com/riant/

きっと、世界一居心地のよい料理教室です。(笑)(^^ゞ               

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愛される料理の石畳 VOL.10

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「愛は、お互いを見つめ合うことなんかじゃない。二人で同じ方向を見つめることだ。」

                   =サン・テグジュペリ=

パリの2つ星に採用された僕は・・・・・。

お店は、6区にあったのです。セーヌ川からすぐのところですが、
1ケ月間は、地理が今一把握できなくて、たった3駅なのにメトロを使いました。

「たった」と書いたのは、パリのメトロはホームから隣のホームが殆ど見えるくらい近いのです。「レアル→シャトレ→サンミッシェル」数分のってるだけ・・・・・。
1ケ月後からは、さすがに近いことが分かって歩いたのです。
それでも「カルトオランジ」という全線のれる1ケ月定期のような切符は安かったから持ってました。

初日、時間通りにいくと店の前に数人の若者が(コックさん達、シェフが店の鍵を持っているので)鍵が開くのを待っていたんです。
一人日本人がいて、彼がおおざっぱな流れを説明してくれました。
ロッカーに案内され、着替えて、・・。調理場に入れば、たいして日本と変わりません。どうも、彼が近いうちに辞めるようです。

最初は、パティシエ。お菓子担当です。
クレームブリュレや、サブレ、ヌガーグラッセ、ブリオッシュ、ウッフアラネージュ、マドレーヌや、プチタルトシトロン。

みんな日本でやったことのあるものばかりで、配合が多少違っていたのと、道具が大きかったので、ちょっと不安でしたが、難なく身振り、手振りで引き継ぎました。相手は、確かデンマーク人だったように覚えてます。

他にも、スペイン人、カナダ人がいました。
キッチンでは、調理用語をフランス語で喋るので、思ったよりコミュニケーションはスムーズです。でも、仕事以外では、みんな母国語訛の変なフランス語で、よく分かりません。

スペイン人は、全くフランス語が出来なくて、思い切りからかわれていました。超・ひょうきんな面白いヤツだったです。(実はあとでスペイン旅行に行った際、マドリッドで偶然に出会いました。信じられな~い。嘘みたいって彼も思ったそうです)

ジャガイモのガレット(ジャガイモを千切りにしてフライパンで煎餅のように焼く)を作るとき、フランス人達が使うフライパンより大きなフライパンで作り始め、返すときに、空中に飛ばして上手くキャッチしたものだから、調子に乗り、エンタテイナーよろしく、両手を広げて投げキッス。
(ちなみに、彼のフランス語は、ひと月でペラペラになってました。いいなぁ。なんでぇ?)(笑)

日本で、少ない人数でなんでもやらなくてはいけなかった僕にとっては、段取りさえ覚えてしまえば、なんのことはない、ある意味楽でもあったのです。そして数ヶ月後、場所が変わって前菜担当。知らない料理もあり、とても勉強になりました。

スモークサーモンのムース。フォアグラのトーション仕立て。ふんだんなトリュフとキャビア。沢山のオマール。・・・・・・

やはり日本では、気軽にさわることが出来なかったものが
自分の開け閉めする扉の向こうに並んでいる。がぶりとはいかないまでも、観察して見つめている自分がいました。

このころは、ずいぶんとフランス語が分かっている気持ちになって、積極的に、シェフと会話をするようにしてました。
そう、メトロを使っていたころ、よくシェフと一緒でした。
まぁ、地下鉄の中での会話は、なかなか出来なかったですが

(モジモジ・・)(爆)

毎日が、アッという間。どんどん過ぎて行く。

この頃、初めて、「毎日が愛おしい」って感じたのです。

・・・・・実は、パリで出会って覚えたこと、知ったことはどれもこれも大切なのですが、どれか一つといわれたら、

「毎日が愛しかった」

この気持ちが、ぼくにとっては一番の宝物だったのです。

そういえば、パリは映画の撮影が多かったです。
後からわかったのですが、ご存じですか?「ポンヌフの恋人」という映画。カラックス監督で、ビノシュが主演女優なのですが。

このお店に通い始め、春が終わり、夏が過ぎ、秋も冬に変わろうとしている頃、ポンヌフ(そのころは毎日歩いてわたってましたから)の上に、やたらと石材が運び込まれて、改修工事でも始まるのかなと思ってました。し、最後までそうだと思ってました。

で、ある日、ポンヌフの左岸側(リーブ・ゴーシュ)に騎馬像があるのですが、その上に女性が乗って、ピストルをパンパン撃っているんですね。どうせ、B級映画で、知らない俳優だと思って気にもとめてなかったんです。

確か二日ぐらい夜遅くにそのシーンをやっていたような・・・・。
横目で見ながら、(結構高い位置で、顔が見えないんです)通り過ぎてました。
(あっ、中目黒も撮影多いです。横目で見て通り過ぎます。
新年ブログにも書きましたが、僕は殆どテレビを見ないので、全く分かりませんが、 どうも、時々有名な俳優さんやシーンを撮影しているようですね。)

実は、数年後、日本に帰ってきて、ちょっと恋しくなったフランスを映画で観るか。ビノシュが好きだったので、「ポンヌフの恋人」を観ていて超ビックリ。「あれぇ、これ見たよぉ。すぐ近くで見てたぁ」のです。(笑)

そして、年が明けて、僕は結構パリジャンになった気分でした。
フランス語も、怖くなくなったし、街を何処でも歩けるようになったし。

そうなると、ちょっと欲が出てきます。

少しだけ文化的な生活がしてみたいのです。たまにはブティックも入ってみたい。高級フレンチにも行ってみたい。日本に帰ったら買えないだろう本が欲しい。

お金が少し足りません。少しどころか全く足りません。
何といっても、最初の1ケ月で、持ってきたほぼ全て30万円を使ってしまい、あとは、月々わずかなこの店のバイト代で暮らしていたわけですから、プラスマイナスゼロに近いのです。

そんなとき、友人から、キャフェの仕事の話しが来ました。僕はフランス人だけの中で生活したかったし、僕が一から十まで作るものをフランス人に食べて欲しかった。それに今のバイト代の3倍の給料です。場所はパリ郊外。メトロ通勤の始まりです。もう、仕事に不安はありません。

軍隊の様なタイユバンやジャマン(ジョエル・ロビション)へ、無給で修行に行くのではありません。「行く行く行く・・・・」と、迷いなく決めました。

さぁ、1年世話になった、2つ星。シェフに伝えなくてはいけません。
ちょっと、戸惑いましたが、話し始めると、そんなことは当然。お前は長かったよ。とでも言うように、「OK」で、話しは終了。

最後の頃は、日本人のお客様がいらっしゃると、客席に説明に行ったり、そうそう、日本の某有名ホテルからも研修に年長の料理人の方が何人かみえた時も、シェフとの間に入り、通訳まで行かなくても、なんだかそんな感じの事をやりました。

そして、何組めかの日本人コックさん達の研修最終日が、丁度僕の2つ星修行最終日に重なりました。
朝から、普通に仕事をこなし、いつものように、皆でまかないを作り、食べて、食後に、ギャルソンの一人が、エスプレッソを入れてくれるのですが、それが今日はなかなか遅くて。

誰か料理人が、催促したら、彼は今夜のサービスの準備で忙しいとか。

僕は、すかさず(さてどう言ったのか、今なら言えないなぁ。内容は)。
「僕たち料理人は、どんなに仕込みがあっても、君たちの分までマカナイは作る。 何で、僕たちのエスプレッソを出さないの?」

これは、理屈っぽいフランス人を一発で納得させたようです。いきなりそのギャルソンが僕のところへ来て、「ビズー、ビズー」(あのホッペとホッペの挨拶です)

「YOSHI、お前はここに来た頃、全くフランス語を喋れなかった。よくそこまで喋れるようになったなあ」と・・・・・。

(※YOSHIは、僕のフランスでの名前です)

そして、みんなに、YOSHIに注意されたからエスプレッソを入れたんだ。と嬉しそうに配るのです。すごく嬉しかったです。だって日本人同士なら、嫌みの応答でしょう?

そして、夜のサービスがもう終わろうとしている頃、かつて仕事をしたパティシエの場所で、タルト生地をもらい、速攻でみんなにプレゼントするタルトを店の材料で作り、振る舞いました。店の材料で作ったけれど、みんな悦んでくれて、「日本風タルト」かとバカにしてくれたけれど、嬉しくて、嬉しくて。

そうしたら、この1年がいきなり頭の中にグルグル回り始めたんですね。

なんの保証も、あてもなくCDGに到着した日、安ホテルの部屋、下調べ、面接、手紙、採用、日々の仕事・・・フランス語。フランス語。フランス語の嵐。

暑いキッチン、フォアグラの失敗。最高のブリオッシュ。
今までで一番美味しいと、ギャルソンにほめられたクレームブリュレ・・・・。

幼稚なフランス語をバカにした、若いコミ(見習い)を吹っ飛ばしたこと。

・・・・・・不覚にも泣いてしまったのです。
仲の良かった、ギャルソン達。シェフ、スーシェフ、コミ・・みんなありがとう。

本当に「ありがとう」

という思いがあふれた。

日本から来た、何処の馬の骨とも分からぬ僕に、仕事をくれて一緒に働いてくれた。
涙がこぼれてとまらなかったのです。その場にいた、ホテルから派遣された日本人の研修生の方々には、何故泣いているのかきっと分からなかったでしょう。

ぼくは、なんのコネも保証もお金もなく、パリに来られたことに感謝したのです。そうでなければ、こんな感動は得られなかっただろうから。

愛される料理 RIANT http://homepage2.nifty.com/riant/

追伸;そういえば、パリにいるときはいつでも、今その時を必死に生きてました。何故なら、それだけしか出来なかったから。Yoshinori.K

             

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パリ2つ星 VOL.9

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「愛とは、後ろを振り向きながら立ち去ろうとする人の形から心臓が飛びだした形」          =白川静=

あれぇ。気がつけば12月が終わりそうです。クリスマス期間中にお越し頂いた皆様、ありがとうございました。心より感謝しております。

また、お会いできる日を楽しみにしております。と言っても、一人で料理を作っているので、なかなかお会いすることが出来ないのが残念です。

もしも、最後のテーブルだったり(りあんは5卓のみです)他にお客様がいらっしゃらない様な時でしたら、一声おかけ下されば、すぐにお伺いします。(笑)

さて、僕は、パリの二つ星で雇ってもらえるのか否か?
手紙を書いて、出したのですが、3,4日してからもう一度訪ねました。
何故って他にする事が無いのですから、パリにいるのにもったいないですね。

でも、あと何日かでお金が無くなり、&帰りのチケットがないって言うのは、滅多に経験することではない(笑)ですが、かなり・・・ヤバイ(爆)です。
当然と言えば当然ですが、全く仕事がない状態なんて、選択技に入ってなかったんです。行けば働き口くらいあるって・・・・。

それまで、訪ねていった仕事場で断られる事って経験してないのです。
当初駄目でもしばらくすると、何故だか連絡が来て雇ってくれる。

沢山のコックさんが、山ほど手紙書いて、それでも勤め先がないのを横目で見ながら、僕は大丈夫だなんて意味の分からない自信というか安心というか、脳天気です。(爆)

そんな自信も、自分の居場所が全くないパリで、OKが出ないから焦ったんです。
みんなこれを当然と思っているのに僕にとってはそんなの「ウッソー」ですから、世間知らずと言えばそうです。

「今、この図太さというか脳天気があったらなぁ」と時々思います。

で、例の時間に訪ねていったら、案の定あの細身のハンサムシェフが出てきました。
「BONJOUR」・・・・・。彼らは挨拶が大好きです。

会うと必ず。ブティックに入る時も、コンビニ(そんなの無いけど今思うと似てる)や、酒屋でも、いつでも何処でも「BONJOUR」
(余談になりますが、ずっと後になるのですが、ヴィザが切れて、ドイツに一度出国した時も、挨拶でとても良い思いをしました。)

彼は、覚えていてくれて、あの花を家に持って帰ったら、奥さんがとても喜んだそうで感謝されてしまいました。(僕としては、オーナーに渡すつもりだったけれど、花束をかかえて最初に語りかけた人が、シェフだった)

でも、この時、「これってチャンスじゃん。シェフが気にいれば、きっとオーナが迷ったとき、僕を選ぶように進言してくれる」「思わぬ方向に進んできたぞ」(^^ゞ

あの焦りなんて、何処吹く風よ。なんだかちょっといい気分で帰ってきたのです。
で、月末に電話しなさいと、店の電話番号を渡されたのです。

でも、ようやく観光フランス語のイロハの「イ」レベルで、
店に電話して、自分を名乗って理由を説明して、オーナーを呼びだしてもらうなんて、考えただけで、おかしくなりそうです。1年間のアテネフランセが・・・・・。

それで、面倒になるのはまずいと思い、すぐに聞きました。
「a quelle heure?(ア・ケルール)」(何時に?)
こうすれば少なくともその時間に電話してくる日本人は僕だとこのシェフだけは分かっているだろう。

アテネフランセ様々です。前回の「QUAND?(カン)」(いつ?)」といい、実に良いタイミングで、単純明快な言葉が口をついたものです。

日本にいて、中級クラスで授業受けたり、検定受ける為だったら、こんな単純な言葉、知っていて当たり前だし、「それがなんなのさ」だったと思います。

でもね、生まれて、はじめて見ず知らずのフランス人に(アテネの先生はのぞいて)自分の意志(言葉づらではないです)がダイレクトに伝わる感覚は、忘れられません。

今月末の3時頃。(おお、審判の時か。)
あと1週間足らずです。落ち着けって言うのが無理なのですが、仕方がない。           

ココで普通なら、別の店も探して、確率を上げるところでしょうが、僕は1点集中系ですから(めんどくさかったのと、2度とこんな緊張は御免だと思ってたんです)キャフェで時間をつぶすことにしてました。それから散歩の毎日です。
でも、何処を散歩しても「うわのそら」、楽しむことは出来なかったです。

そしていよいよ、その日。
ホテルの近くの公衆電話から、ダイヤル(プッシュ)して、、、、
「オーナーを御願いします・・・」
時間を決めておいたからすぐに、オーナーが出てくれました。
なんだかごちゃごちゃ話しをしてくれているのですが、よく分かりません。
しばらく、黙っていたらいきなり「あなたに、決めました」って僕でも理解できる言葉で言ってくれて・・・。

頭が混乱して、そうしたらまた同じ言葉で「あなたに、決めました」 「あれ日本語だ!」
だから理解できたのです。まさか日本語が出てくると思ってませんから、いきなり理解できたことが理解できなかったのです。(爆)

「メルシー」って言ってそれから「何が必要か」って聞いて。
「コック服と、ナイフ」って言われたのです。そうそうフランスのキッチンはコック服が自前なんですね。クリーニングも自前。日本のように、職場で用意してあって洗濯までしてくれる。こんな恵まれていないです。(「あなたに決めました」以外は仏語でしたぁ)

あっ、はじめて気がつきました。
コック服も、包丁も持ってこなかった・・・・・。
あとからよくよく聞いたら、回りでこんなの僕だけだったのです。
パリに買い物でも行くような、観光気分で来てしまった訳ですから(笑)

丁度そのころ、僕のチケットを買って下さったシェフが、当時勤めていたホテルの仕事でパリに来ることになって、急いで、コック服を持ってきてもらうことにしました。
また包丁はレ・アルの調理道具屋で一番安いのを買いました。

これで、僕のパリレストラン修行が始まるわけです。
ココまででずいぶん疲れちゃいました。生まれてはじめて白髪も生えました。(爆)
非常に気持ちが高ぶっていたのと、街を歩けば、写真に出てくるあの街ですから通常の精神状態ではなかったでしょう。

彼が、パリに着いて、会って一緒に食事して・・・。

僕は、それまでひと月ほどパリで暮らしましたが、右も左も分からない街で、独りぼっちでした。勿論ホテルに帰れば誰かしら日本人はいますが、まだ打ち解ける感じではなかったですし、そんな精神状態でも、あまり日本人と一緒に行動したら意味がないって自分で決めていたみたい。

翌々日、彼が日本へ帰る日、
別れ際シャンゼリゼで涙が出てきて、彼もむかしリヨンで独りぼっちだったから、分かるって・・・・・・。そんなこと言ったらまた、涙がこぼれる。

彼はフランスに8年もいたので、やっぱりこっちの文化に、「普通に」とけ込めている、そんな感じがしたのです。
僕も、その「普通の」感覚が欲しい。この時僕の求めていたものが、ひとつ分かりました。

愛される料理 RIANT http://homepage2.nifty.com/riant/

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愛される料理の道のり VOL.8

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「人生とは、完成に達するまでの努力の中にある」

                         =トルストイ=

いよいよ、2006年もラストスパート!
僕は、もう、今月で今年が終わりって感じです。毎年、12月、ため息がつい頃には27日くらいだから(トホホ)・・。

連休(11/3~5)はいかがお過ごしでしたでしょうか?
りあんは、夏と冬の1週間以外は、毎週月曜日だけのお休みなので、通常通りのスケジュールでした。料理教室がない週ですから、料理作成、写真撮影、レシピ起こし。ちょっと、片づけもの・・・・。

出てきました、20年くらい前のレシピ帳(メモ帳)。まだ和食時代のばっかりでしたけれど・・。(^^ゞ
谷川俊太郎さんの「生きる」が、間に挟まっていて・・・。
しばし、脳味噌がストップ・・。こちらは、11/4にブログUPしてます。

さて、先月の続き?!
なんだか、連載ものになってしまった感じですが・・。
話しが、前後したり、回転したり、読みにくいと思いますが、その場その場で書いていくので、ご容赦下さい。
実は、道場さんのお店を辞めて、「東京フランス料理」の世界に入った時もそうだったのですが、いわゆる、飛び込み営業なんです。

ドアをノックして、誰かが出てくる。自己紹介して、「働きたい」と言う。
殆どのコックさんは、日本から、もしくはフランスについてから、手紙を書くんです。
ミシュランというガイドブックに載っている星の数を見て、行きたい店、もしくは誰かから噂を聞いた店に。何軒も何軒も・。
そして、南仏から返事が来た。とかリヨンから返事が来たとか。
で、それまで、のんびり過ごしていた方が、いつの間にか、いなくなったりして。僕は、前にも書いたのですが、一点集中型。

それで、手紙を書くまでも、パリなら行ってしまえばいい。と思ったわけです。ランチが終わるころ、15:00位でしょうか、
中では、何となく昼の営業が終わる様子の音がして、、(フランス語と日本語の違いですが、言ってることや食器の音は変わらないですから)しばらくすると、料理人が次々と出てきました。

そう。お昼の仕事が終わると、いったん家に帰るんですよ。
これとっても映画の世界にいるみたいで、日本では考えられな~い。
そのうちに、ちょっと細目の優しそうな料理人が出てきたので、
「BONJOUR」って声をかけて見ました。
手には、花束をかかえてるんです。
道場さんのお店を辞めて、飛び込みで入って結局勤めることになった店のオーナーが花が好きで、どこかへ行くときに花を持っていく姿を見せてもらってました。

花を持っている若者(笑)(僕は向こうで、7才さばを読み21(爆)で通しました。)が挨拶するのですから、彼も挨拶をくれます。
で、覚えたフランス語を。。。。ん?緊張している。えっと・・・・なんだっけ。
そうそう、「仕事したい!」って。(勿論フランス語ですよ、え、どういうのかって恥ずかしいなぁ。「ジュブドレ・トラバイエ・イシイ」ってね)

フランス中の星付きレストランには、日本人が働いているか、過去に雇ったことがあるかですから、それだけで、この東洋人は、日本人で、例のごとく・・・。って分かるのです。ですから、すぐに、言われちゃいました。
「PAS DE PLACE」(パ・ド・プラス;ポジションがない)
でも、日本と同じく料理人は、結構入れ替わるんですね。
勿論、そこに日本人がいることも予想できますから、
フランス人が辞めなくても、日本人は、殆ど長居しないので、空くと思いました。
それで、すぐに「QUAND」(カン?;いつ?)って単語だけを切り返しました。
これ、切り返せて良かったです。
これで、彼としばらく、会話することが出来て、(笑)
(あっ、そう思ってるだけ、彼にとっては、会話の範疇には決して入らない単語の羅列)
どうも、「今月末に一人日本人が辞めるかも」って言っているのです。
「おお!」心臓が高鳴ります。はち切れそうというのは、こういうことか。
タイムリミット。来月から仕事がない場合。僕は大変なことになります。
帰りのチケットがないので帰るに帰れない。日本料理屋か中華料理屋か、分からないけれど、働いてどうしてもお金を得なくてはいけないのです。
最後は、送金という事もあるのですが、僕は絶対にしたくなかったのです・・。
結局「約束は出来ない」「オーナーではない」事を念を押されてしまって。ショック!
でも最後に救われたのが、月末にもう一度連絡が欲しいと言うことでした。

あれぇ。自分の思ったとおりにならない。
なんでも思い通りになるなんて、、、おごりもいいところ。
そのころ、自己啓発の本なんて知りませんから、良かったのです。
万一、ナポレオン・ヒル著「思考は現実化する」なんて知っていたら、
そりゃ、ヒル博士に文句なんか、ぶつけていたかもぉ。
とぼとぼと、ポンヌフをわたり、宿屋にもどってきて、
「どうしよう」・・・・・。

それで、思いついたのが、手紙を書くことでした。
コックさんの仲間内では、どうもそういった手紙のひな形の様なものがあるらしいのですが、僕は、興味がなくて、僕の気持ちだけをただひたすら、辞書片手に、書きつづりました。

で、せっかくですから、イラストも入れたんですね。(笑)
わかりやすいのは????そう、陶芸。轆轤をひいている姿のイラストを描きました。

そのころは、まだ、美大生の名残が残っていて、絵を描くことに抵抗がなかったのがよかったです。あと、日本料理をやっていたこと。これは、得点高いと踏んでました。
諸先輩の噂で、多くの星付きレストランで、和食を作らされることを聞いていたからです。
(結局、僕は和食を作らされなかったですが・・・)

オット紙面が・・・。あんまり長いのは駄目だって、飯坂に言われてるので(笑)・・

Google、Yahoo!で「愛される料理」って検索して下さい。(^^ゞ
勿論お友達にも、是非ご紹介を!このりあんマガジンは、毎月末にブログUPします。
その間に、何本か記事をUPします。是非、御覧下さい。←やってなぁい。年末はきっと無理かもしれない。やっぱりフレンチは12月に集中してしまって・・・・・(^^ゞ

愛される料理 RIANT http://homepage2.nifty.com/riant/

   

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愛される料理の思い出 続 VOL.7

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「望遠鏡よりも、涙の方が遠くのものをずっと鮮明に見せてくれる」

                           =オグ・マンディーノ=

年末に近づいて来ました。秋本番。
そろそろ、忘年会や、冬休みの話しがチラホラ聞こえ始めるのではないでしょうか。

このところ、KOKIAさんの「ありがとう」が頭の中を駆けめぐってます。
もう巷では、流行終わってるのでしょう?
僕は、先日書いたように、それまで全く知らなかったのですが、本当にたまたま、行き着いたあるブログで知ったのです。

感動して、涙が流れてしまい。何度もそのページをを開いて聴いているうちに、結局ダウンロードしていて、最後には、BGMに使われていた「ありがとう」を買ってしまいました。。(^^ゞ
便利ですね。レコード屋さん(死語ぉ?)で探さなくて、PC上から好きな曲買えちゃんですから。

でも、高校生の頃、お気に入りのレコード屋さんへ行って、パタパタパタって綺麗にレコードをめくっていって(分かりますか?)お目当ての1枚を探すのが速いとか、店主と話しをするって言うのが、僕の時代は結構ステータスだったので、ちょっと寂しいかもぉ。

さて、話しが前後してしまいますが・・・。
(教室で配っているりあんマガジンとの時間差が出てます)

9月25日付け「秋の料理教室」             http://riant.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_9209.html

の続きです。

フランスに行きたくなって、行くと決めて何をしたかというと、グッドタイミングと言うか、今ではどちらが先だったのかも忘れてしまったのですが、夜(ディナー)だけのレストランの仕事が来たのです。

その時には、ベシャメルを捨てたシェフとは違うシェフの下で働いていて、(この方は、8年位フランスにいらっしゃったのですが)  「おい、来月からこの店に行け!」って・・・・。僕の都合も何も聞かないで決めちゃって、まぁ、「シェフは神様」という業界ですから仕方ありません。「えっ、そ、そうなんですか?」で、決まり。

午前中の仕事がないわけですから、ちょっと考えてすぐにこのチャンスに飛びつきました。1年間、週3回午前中のコースで、フランス語習得です。アテネフランセに通い始めたのです。楽しいのなんのって。(笑)

何故って?職人たちの世界で、朝から晩まで、10年近く身体でものを覚えて、ん~、なんというか、「これが社会だ!」と言わんばかりの仕事(作業)を、学校にいつの間にか行かなくなり、社会人としての心づもりも、就職だと言う思いもなく、続けていた僕にとって、古巣へ帰ったみたいだったのです。

・・・アテネフランセは、お茶美(お茶の水美術学園)の近くにあったことも、一層そういう気持ちにさせました。多摩美に入る前に毎日通っていた街でしたから。・・・・

文房具を入れたデイパックがとても嬉しくて、持ってるだけでニヤってしまう。(^^ゞ
アテネフランセでは、いろんな年齢、学生、職業、入り交じっておもしろかったです。
僕は仕事柄、料理用語では、多少フランス語を覚え始めていたので、かなり積極的?に学習しました。(笑)

超・初級の次からは、視聴覚設備を使うクラスを選択したのですが、これは大成功だったのです。丁度ウオークマンもかなり普及していたし(確か1988年?)テープが伸びるほど、いつも学校で作ったテープを聴いてました。(確か、あの神田昌典さんが強盗にナイフを突きつけられ「お前の成功の本当の秘密を言え」と言われたら、テープ学習という。なんて文章を読んだことがあります)

中学、高校と6年間勉強した英語より、この時半年で覚えたフランス語の方が、立派につかえました。
語学は、必要に迫られれば、そこそこまでなら簡単に覚えられると知りました。

そして、その頃何げなく思い始めたのです。なんだか全て 「自分の思った通りになっている」 事を。
後々、それって大きな誤解をしていたことに気がつくのですが(爆)。

丁度、1年間そのお店に通いながら、アテネフランセに通い、ついにフランスへ行く日が決定!して・・しまいました・・・。
そのフランス8年のシェフがチケットを買ってしまったのです(笑)   「シェフ~。頼んでませんよぉ~。」

買ってくださった訳ではなくて、買ったのです。
僕のところへ持ってきて、丁寧に代金を請求して下さいました。(爆)
で、確か12万円くらい、安い!ですよ。当時、皆さん18万円くらいで買っていた様子ですから。(料理人御用達は、大韓航空か、アエロフロート)その時の僕は、感謝感激雨霰です。

「あ、ありがとうございます!」(大爆)

でも、チケットをよ~く見たら、な、なんと片道切符。(ヒェー)
みんなが買うのは、もしもの時を考えて、1年オープンですよ。もうそれが常識。でも、僕の手元にあるのは、どう見ても片道。(苦笑)安いわけです。騒いでも怒っても、どうしようもないので、「そうか。ま、いいか」

当時、僕はずいぶんと人間が出来ていたって思う時もあったのですが、今思うと、あの時頭の中は既にフランスで一杯なのです。
「行く」(ワクワク)「行かれる」(ウレシー)もうそれだけ。だから、結局片道でも、なんでも行き先がCDG(シャルル・ド・ゴール;パリ国際空港)なら良かったの。

でも、この片道切符がまたまたふたまたの人生を決めたのですね。
いわゆる、「もう帰れない」。それに気がついたのは、なんとフランスに滞在して3週間が過ぎようとした頃。焦りました。(脳天気というか、経済観念がないというか)
そうですよ。だって、片道切符と現金35万円だけなんですから。
もともと、行くにあたって用意できたお金は、50万円。そのうち片道切符に12万円。
残りは、38万円。だからお財布に3万円とスーツケースの奥にある封筒は35万円だけ。
あっ、僕はカードなんて使ったことなくて、勿論、ないです。

でも、その当時の35万円って、僕にとってものすごく大金で。ゆとりがあるって錯覚していたのです。

美大生を中退したときから、ずっと仕事して、少なくてもお金は稼いでいたし、1人暮らしと言っても、せいぜい5万円6畳1間。今で言うワンルームタイプ。料理屋ですから、食べ物には困らなく、12万円程度のお給料でもあまるのですから。
だから、35万円が如何に大金と思えて、錯覚してしまうか。

でも、仕事していなくて、食べ物にしっかりお金を払うことを毎日続けていると、どれだけなくなるのか、パリで初めて知ったわけです。

僕は、高校入試も、大学入試も、沢山受けないのです。
ここと思ったら、他は受ける気が起きない。
高校は、土壇場で先生から滑り止めを受けておくよう注意されて否応なくと、多摩美の時は、美大というものの枠で武蔵美も受けましたが、他はパス。(だいたい、落ちると思わない(笑)大いなる勘違い)

そんなクセがあったので、パリに着いてすぐ、日本人のコックさんがたまっているキャフェを見つけて情報を集めて、たった一つ、6区にある2つ星を狙いました。(何で、みんなそこで働かないの?って思ったのですがまぁ、人それぞれなのでしょう)

明日、仕事もらいに行くぞと決めた日に、ホテルから歩いて行き、その店の前に立って、「僕はもう、ここで働らく」「ここで働いている」と、思ったのです。
大胆にも、そこまで行って自分の思ったとおりになるっていう大きな勘違いを、無意識のうちに試したんですね。  続く・・・・・Yoshinori.K

愛される料理 RIANT http://homepage2.nifty.com/riant/

ちょっと一息・・・・・いつも一息?

クボちんさんのギターです。http://www.geocities.jp/dscms959/m233.mp3               僕は、この曲を聴くと「スペース・カウボーイ(クリント・イーストウッド)」を思い出します。あぁ、トミー・リー・ジョーンズが,・・・・・。

目頭が熱くなるぅ。こちらです。→スペース カウボーイ 特別版

魅惑のギターMP3→ http://kubotin1.blog74.fc2.com/

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愛される料理の思い出 VOL6

◇料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!

「心で見なければ物事を正しく見ることは出来ません。目に見えないことが一番大切なのです。」=サン・テグジュペリ=

夕べ、友人に仕事への情熱みたいな事をメールしていたところ、急にフランスで仕事していた日を思い出しました。

確か、1989年になった頃、半年ほど秋ぐらいまで、僕はパリ郊外の小さな個人経営のキャフェ・レストランで働きました。

お金がもらえたからです。
あの当時、フランスの星付きレストランでスタジエ(研修生扱い)したり、ささやかでも給料をもらって働いていた日本人はかなりいたと思います。
ただ、街場のキャフェで普通に働いていた日本人は、そんなに多くないでしょう。

友人が紹介してくれたのですが、嬉しかったです。
生活が安定するし、普通のフランス人と四六時中過ごせますから。
このキャフェにいた半年は、殆ど日本語を使わない毎日でした。(笑)
(使っても誰も分からないです(爆))

そこでの料理人は、僕一人ですからやっぱりシェフって呼ばれます。
東京とそのキャフェの前に1年間いた2つ星で身に付けた仕事を、全部使う毎日です。
朝から晩まで(ディナーはないのですが、翌日の仕込みとか、作り置きできるお菓子とか)一人でただひたすらに作り続けるのです。
勿論皿洗い、キッチン掃除、床磨きなんかもです。

3つ星シェフ達の料理本を持っていって、オーナーに料理写真を見せ、サラマンドル(上火だけのオーブンのようなもの)かガスバーナーがあると、こんな料理が出来るよ。とか、スティックミキサーがあると、こんなソースが作れるんだとか、時々言ってみる。
そうすると、そうかそうかと買ってくる。

この時、はじめてどうすれば道具をそろえてもらえるか知りました。(笑)

毎日が夢のように過ぎていく。
愛しい時間。
BONJOUR(ボンジュール)から始まって、
A DEMAIN(ア・ドマン;また明日)まで。

フランス人の中でたった一人の日本人。
自分でココにいることが自然に思えて・・・・。

それが不思議だったです。

オーナーは時々、全く知らないレシピを持ってきて、これを作ってくれと言いました。
へぇーと思ったのは、塩だらをもどして、ジャガ芋のピュレと重ねるブランダード、それから、パエリヤにも、土地柄により、内容が違うこともココではじめて知りました。

クロタンと言う山羊の小さなチーズを香草の入ったオリーブオイルに漬け込んでからパンにのせてトーストしてサラダにのせものや、名前だけは知っていたけど、食べたことのなかったクロック・ムッシュー・・・・。

ちょっと手を抜いて、勉強しなかったものが結構出てきて、おもしろかったです。

オーナーが黙っていても、旨いモノを作るのだから、だんだん信用されて、彼は友人や常連客をキッチンに招いては、僕を紹介するようになってきました。
僕もその時は、半年後に辞めることなど思ってもいないから、これから友達づきあいが始まるかもなぁ。等と思ってニコニコしながら握手してました。

そうして、今思うと夢の様な毎日が過ぎるのです。

ところが4ヶ月目が過ぎる頃から、毎日の仕事が作業になってきました。
一人で追われるのが、だんだんしんどくなってきて、仕事をパターン化していったからです。ある程度仕込んでおいて、出すだけにする。為です。

これは、いつのまにか、僕にダメージを与えました。
今思うと、自分でそうしたのが、ハッキリと分かるのですが、その時はもう、頭も心もかなり乱れてきてたので、分かりませんでした。

毎日3時になると、ランチの皿とシルバーが山となっているのです。
2時間ビッチリ集中して作って、その後の皿洗い。
最初のうちは、いいクールダウンだなんて思っていたのが、
どうしてこうも変わるのだろう。

洗い物が憂鬱でどうしようもない。

「俺はココで何やってるんだ!」

「皿洗いするためにフランスくんだりまで来たのか!」

もっともらしい言葉です。自分をだましたのです。 だましたと思えないいいわけを作って。

それまで、オーナーが市場から荷物を持って帰ってくると、何が来ているのだろうと、楽しみながら、冷蔵庫に整理していたのに・・・・。 いつまでも片づけない。
オーナーが「片づけないのか?」と言っても忙しそうにして無視する。

仕方なく、彼が片づける。

僕が、冷蔵庫に食材を取りに行くと、適当に詰め込まれた材料達。
それを見ていらつき、いきなりつかんでぶん投げる。
たった半年で、天国から地獄へころがり落ちた。

オーナーお墨付きの、良い料理人から、悪い料理人へ・・・。
自分でも訳が分からないのではない。
知っているのです。
でも、全部店のせいにした。この店が悪いと。

そして、胃痛が僕を襲う。
常に胃薬を飲み始めたら、オーナーが気を使ってフランス人のヘルプをつけてくれたのです。
多分年上。流れのコック。
はたしてフランスにそういう人がいるのか知りませんでしたが、そんな匂いがしていました。

一週間ほど、一緒に仕事をして、僕は今がチャンスだと思い、いきなり来週辞めるとオーナーに切り出したのです。
彼はかなりビックリして、何か言おうとしてましたが、それを聞きたくなくて、言うとすぐに店から出て帰ったのです。

その日から、辞める日までは、いつも入れ替わり立ち替わりキッチンに来ていた、オーナーの友達は、誰も入ってきませんでした。
夕方僕が帰るときにカウンターでエスプレッソを飲んで喋っているのですが、僕が後ろを通ると、みんな黙ります。

疲れ切りました。自分で自分をどうしようもない「どつぼ」に落としてしまった。
全て、店と仕事のせいにした。ずっと忘れないイヤな思い出です。

何年かしたら、訪ねてみたいけれど、笑って挨拶できないのが辛い。
僕の心が違ったなら、きっと友達でいた常連達。
訪ねたとしても通りの向こう側から、眺めるのでしょう。

愛される料理 RIANT http://homepage2.nifty.com/riant/

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秋の料理教室 VOL.5

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、あきらめるな」=ティモシー・ノーブル(ウインストン・チャーチル)=

今年ももう9月。
秋の料理教室が始まりました。

以前、料理人になった瞬間について、少しお話ししたので、今回はその続きを。
一応、ご紹介下さった方と一緒に、「ろくさん亭」へ面接に伺いました。
何を話したのか、全く覚えてません。
ただ、あれよあれよという間に、ろくさん亭の調理場に立っていたことだけ覚えてます。
波の中に入ってしまいました。
波に乗っているのか、巻き込まれているのか知る由もないのです。

本当に料理人の世界というものを知らないのですから、初日は指定された10:00に
行きました。(翌日から始発か、始発に近い時間で通うことになりましたが)
すぐ上の先輩となる方が、白衣や、今朝する仕事、を早口で教えてくれて、
言われるがままに時間が過ぎていきます。

まずは洗い物、洗い物、洗い物。片づけ、片づけ、片づけ。
そして、追い回しという、言われるとおりに動かなくてはならない。
専門用語も多少出てきて、「ん?」なんてその都度、教わるわけです。

僕の時代は、もう昔ほど殴られたり、蹴られたり、無視される事もなく、、必要最低限な事は教わることができましたから、幸せだったと思います。

そんな怒濤の波の中で2ケ月が過ぎました。多少慣れはじめたこの頃、すぐ上の先輩2人が辞めてしまったのです。
それで否応なしに、焼き物をすることになってしまい、もう大変。
まだまだ何も知らないのに、始発で通って、下準備をして、先輩達が来て、可能な限り一緒に仕事をして(そうしないと覚えられない)。板前さん、仲居さん達の夕食の準備。

そうそう、「365日のおかず」が愛読書でした。
朝、電車の中で、メニューを考えます。本は重いので寝る前に見ておきます。

この頃、少し気がつきました。
僕は、朝思いつくんです。色々なことが・・・・。

 今、料理教室のメニューを毎月作りますが、毎回この方法を使います。
 今までの料理写真を見たり、材料や食事のシーンや、思い出しながら眠るんです。
 そうすると、朝、頭の中に料理ができるんです。
 これが、紛れもなく僕のメニュー開発の一つの手段です。

話しをまかない(スタッフの食事)にもどします。
いくら365日のおかずで学んでも、所詮素人ですから、手順がわからず、
全くもって無理、無駄の連続。そうすると時間がやたらと消費される訳です。

僕は、素直に働き、よく動いたので、あまり怒られると言うことはありませんでしたが、
この時間だけは、駄目です。容赦なく、最初から「もっと早く、もっと早く」でした。

これは、効果があります。徹底的に時間短縮を迫られるので否応なしに、手際が良くなる。2ヶ月もすると、「何でも作れる」これが不思議なんです。
「早く作れる」と言うより、「何でも作れる」って感じなんですが生まれてきました。
(と言っても、実際のレパートリーは限られてますが(^^ゞ・・・ )。

ろくさん亭には、結局2年間お世話になり、フレンチの道へ移行するわけですが、
この経験から、何処へ行ってもまかない係を、結構やりました。
全部で、10軒程の店を渡り歩くのですが、しなかったのは、2軒だけ。
帰国後の仕事先とNYのレストランです。他にスタッフがいたからです。

さて、残った材料で、まかないを作るときのコツは、まずその材料を全てよく見る事です。

そしてタンパク質系(肉、魚類)のものと、ビタミンミネラル系(野菜類)に分ける。
その中で、美味しそうな組み合わせを取り上げます。

次にラーメンみたいに、「塩、醤油、味噌」?って考えます。
勿論、フレンチを学んだので、それ以外のバリエーションもあります。
トマトや、クリーム、バター、オリーブオイル、マスタード・・・・なんて事も

味を想像して、この時点で、8割は出来上がりです。
後は、それにあいそうな調理方法を探します。
生、煮る、焼く、蒸す、揚げる。これで、出来上がりです。
盛りつけは、料理写真をどれだけ見たかがとても大切です。
簡単に、盛り付けられるようになります。
僕は、ダンプの運ちゃんしながら、料理写真を見ていたので、
盛りつけで苦労した事は一度もありません。おすすめします。

とても簡単なことです。ただ、続けることが必要です。
料理は、既に知っている単純作業のくり返し部分が多いです。
だから、そこに愛情を込めることができます。

毎回毎回、知らない手順なら、どうでしょう。
レシピを理解するだけでも手一杯なのに、大切なのは作ること。
その状態で作れるには作れても、心は、作ることだけに占められます。

「愛される料理」には、余裕が必要です。
だから、続けて下さい。料理を作っている最中に余裕が出るまで。
難しい技術レベルではないです。ただ、きちんとした塩加減と火加減が必要です。
それを覚えるのは、続けることです。

僕が、フランス料理へ転向した当初。知らないことだらけで行き詰まりを感じた時期が
あります。毎日が辛かったんです。もう25歳にもなって、ソースやお菓子が何も作れない。20リットルのベシャメルソースをこがして、怒鳴られ捨てられたときには、涙が出ました。フレンチのコックさんの中では、多少魚がさばけても駄目なんです。
ろくさん亭で、ある程度魚が下ろせるようになって、天狗になっていたのです。

通勤中に読む本が、フランス料理専門書に変わりました。
フランス語を学び始めました。何故って、厨房に張ってあるレシピがフランス語なのですから。

僕を怒鳴りつけて、20リットルのベシャメルソースを捨てたチーフは、ソースを作りながら
よくシャンソンを口ずさんでました。これは、僕を癒してくれたんです。
1年間必死に、このチーフに食らいつきました。(今でも友達です)
結局3年後にフランスに行くことになったのですが、この店で働いたから、
このチーフがいたから、シャンソンがあったから、フランス映画を知ったからです。

沢山のシャンソンを聴き始めたら、どうしてもその音楽を作る国を見たくなったのです。料理人のフランス修行の理由とは、かなり違いますが、仕方がない。
行きたくて、行きたくて、思いが募り始めた頃です。
                                                             Yoshinori.k
愛される料理 代官山RIANT    http://homepage2.nifty.com/riant/

                   

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料理人を選んだ一瞬 VOL.5

◇「料理を覚えて、自分と回りを幸せにする!」

「自分に出来ること、あるいは夢に描いていることは、全て実行に移すことだ。大胆であれば非凡な能力と不思議な力を発揮できる」=ゲーテ=

夏本番です。チリチリと焼き付く太陽の日差しがやっぱり来ました。
こんな時は、何にもしたくない。ボーとしてしまう。
「みんなの料理なんか、自分のだって作りたくなぁい。」
そんな、感じになっているでしょうか。

でも作り始めると、結構楽しいものですよ。
先が読めないと、なかなかそんな気持ちも起きないけれど、教室で覚えた料理なら、何となく先行きも見えて、上手く行きそう。

「だけど、レシピを読んで理解する事が。。。」                 暑いですから、そんな感じにもなるかもしれませんね。

だから暑くないときに、理解するんです。早朝や夜。            そしてクーラーを効かせている時等。
そんなときは、頭の回転も良いので理解するだけ理解して、自分で分量を分かりやすく転記する。                                                                   

実は、レシピの書き方は、理解力にとって非常に大切なのですが、とても個人差があります。
それで、りあんは、11年前から同じフォーマットで書いて、迷わせないようにスタンダードなスタイルを続けてます。

そして、ある程度理解したら、もしくは理解しながら、別の用紙に、自分の思うように書いていきます。絵が描ける方は、図解入りで、配合だけで良い方は数値部分だけを。
思いが色々浮かぶ方は、中心から、四方八方へ言葉や分量をつなげながら。

実はこれで8割以上は出来上がってます。
キッチンに立ったら、アッという間にできますよ。
本当の時間は、もう少しかかりますが、夢中になるから、短い時間に感じるはずです。

一度、それを、味わって下さい。そうすれば波に乗れます。
料理だけじゃなくて、殆どそうです。嫌いになる方は、それを感じないうちに、やめてしまうんです。
僕が、料理学校ではなくてプロの道に入ってしまった理由の一つが、強引に波にのせてしまおうと考えたからです。そうすれば、必ず好きになれるからです。

「先月の作りましたよ。思ったより簡単にできちゃいました。」

「ずいぶん前のですが、急に思い立って作りました。」

「好きな料理だったから覚えてました。」

「毎月、友達呼んで披露してます。とても評判で、やっぱり美味しいって言われると嬉しいです」

「復習しなかったから、少し忘れちゃいました。でも何とか味は美味しくできました。」

「レシピって便利ですね」

僕は、元もと芸術家思考が強かったので、レシピなんぞ必要ないと思ってました。
その時思うがまま作ればいいじゃん。
そうできるように、なりたい。それがとても強かったんです。
ついこの間まで、そうできるようになりたいって思ってました。

でも、教室のために、レシピを作り始めると、これがメチャクチャ便利なんですね。

僕が、レシピの中から料理を選ぶときは、材料や味付けじゃなくて、もっぱら写真から。
こんな感じ、っていうの写真は分かりやすいです。

ほら、よく食堂に、ロウでできた料理の模型があるじゃないですか。
子供の頃、誰かと一緒にデパートの食堂へ行きませんでしたか?
あのショーケース。
そういえば最近、なくなりましたね。そういった経験。

今までの料理写真をまとめてない方。
今、ずっとストップしていたHPの写真集をまとめてますから、御利用下さい。
今年上半期分から新装UPしてます。
だんだん過去へさかのぼっていきます。これを見て、作ろう!って思ってくれたら嬉しいです

→RIANT料理写真集 「愛される料理」http://homepage2.nifty.com/riant/riantHP6.html

学ぶことは、とても大切なことですが、実際に応用しないと、本当の良さが分からないと思います。
料理を作ることが好きになって、回数が増えると変わりますよ。
え?何がって?
それは、人それぞれ違うのですが。                      習慣が変わると、色々変わります。

僕の好きな言葉を、紹介しますね。

  心が変われば  行動が変わる

  行動が変われば 習慣が変わる

  習慣が変われば 人格が変わる

  人格が変われば 運命が変わる                                                        山下智茂(星稜高校野球部監督)        

ご存じ松井選手を育てた監督です。
この中の3行目。しっかり書いてありますよ。                習慣が変わると・・・・・・・・。

ね、最後は運命まで変わります。(ヒェー)

僕がそうでした。
美大生で、建築家志望。学校へ行かずドカタとダンプの運ちゃん。
(知らない?僕10tダンプカーで砂利トラしてたんですね!今も大型免許あります(キッパリ、笑))

普通、ダンプカーには、大抵、プレ○ボーイとか週刊○ストとか散乱している感じですが、僕のダンプには、家庭○報と、○季の味が・・・・・。超・変!?
休みの日に、陶芸してましたからおのずと料理に興味が出てくるわけです。

陶芸は、土をいじるわけで、美大生崩れのドカタにとって、待ってましたと言う感じで僕の前に現れました。
実はこの少し前に、とても好きな子にふられてしまって・・・・。

考えてみれば、19歳。普通はあちこちデートに行ったり、ドライブしたり。
ところが僕は、学校行かずにドカタに夢中。
休みは雨の日だけという事で、彼女は全く楽しくない。
そんな状況を、知らず知らずのうちに作ってました。

とても悲しかったです。自分が自分でなくなると言うか、フワフワと自分がよく分からなくて。
そんなときの感性は、すごいですね。
今まで見えないものが見えるというか、雨の音を聞いても、並木を見ても、空を見ても・・・。
全く違って見える。その時、横浜の有名なそば屋へ行ったんです。

そこで出てきた、そばの器が全部自家製だったのです。
癒されました。その器に。一つずつ、不揃いな器が僕に語るのです。
そばを食べなから涙が出るんです。

そのそば屋さん、実はその前も、その後も行っているのですが、
あの時の様な気持ちにはなりません。

あっ、人は出会うべくして出会う。人と、環境と・・・・・。

陶芸を始めた、瞬間です。

陶芸と、ドカタを約3年続けました。いつの間にか学校へは行かなくなり、同級生は、就職活動をはじめる頃、僕は料理人か陶芸家か選ぼうとしてました。

その当時、母は、子供達に手がかからなくったので結婚式場で働いていたんです。
その母に、相談しました。「料理人か陶芸家になろうと思う」
母は、結婚式場で、親しくしていた料理長に相談したんですね。

料理の鉄人、道場六三郎氏の弟子になった瞬間です。

後からその方にお聞きしたら、もう1軒、銀座に「○蝶」と言う料亭があり、どちらを紹介しようかと、考えて下さったそうです。

結局こうして料理をしざるを得ない環境に強引に変わってしまいました。
そう、毎日ダンプに乗っていたのから、翌週に毎日野菜洗いを始めたのです。
(そんなに最初から包丁もてないし、魚のうろこ引きと、野菜洗い、食器洗いが毎日です)

あの瞬間に人生が変わりました。ホンの数秒じゃないかな。
あの瞬間以降は、微調整みたいです。
ほら、高速道路の二またに分かれた入口。ね、入るのは一瞬。

だから、一瞬がどれだけ大切かよく分かっているつもりです。
そうは言えても、すぐ忘れるし、全くずぼらです。
でも夢中になることで、どんどん変わりますよ。年齢は関係ないみたいです。
手始めに、皆さんの場合、料理があるじゃないですか。

通われていらっしゃる方は、少なくてもそうでない方に比べて、料理がきっかけで、
人生が変わるチャンスはあるわけです。
(「人生を変える」と書かなかったのは、変えたいと思ってない方もいらっしゃるでしょうから)

料理じゃなくても、とにかく夢中になるもの、いつも探しているのが、いいかもしれないです。
輝いてる人って、夢中になる何かもってないですか? 

そして、夢中になれるためには、元気じゃないと。              じゃあ元気になるためには、そうしっかり食べること。
料理はね、くるくる回るサイクルなんです。

   
そうして無理なく階段を上れます。何も障害がありません。趣味で登るにはとても良い山です。

おっと、長くなった。超・簡単料理は・・・。夏の教室メニューかな?作ってね。

えっ?、もっと簡単なの?ダメダメ、料理じゃなくなってしまう。

それは僕の朝食。

最高に、美味しいサンドイッチ。

パルメザンチーズと味の薄いマヨネーズ。
本当に美味しい。何度食べても、ほっぺが落ちます。
ああ、考えただけで美味しい!

りあんのマヨネーズを作れる方は、それでOK。市販品なら、「○○素の○レクト」がいいかな。
ぬってパルメザンをスライスかバラバラにほぐしてはさむだけ。
黒粗挽き胡椒とオリーブオイルを一たらし。

何で市販されないのだろう?

http://homepage2.nifty.com/riant/ 

ナチュラルチーズ専門店『オーダーチーズ・ドットコム』

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